第一話
私が各方面の御要望があって「ながさきの空」に最初に「長崎くんち」の事を書き始めたのは昭和58年9月号からで以来本紙で17回になっている。各町の踊町の当番は7年に1回となっているので、私は本紙で各町2回は紹介している。
今年の奉納踊町についても平成8年9月発刊の「ながさきの空 第8集」に記載しているので、御参考に御讀み戴けないだろうか。大体に於いて各町の傘鉾飾は変わっていないし、奉納踊も大体前回と同様である。今年の奉納踊は上町の本踊。油屋町の川船。鍛冶屋町の宝船と七福神の踊。元船町の唐人船と町内子供衆の踊、筑後町の三匹の龍踊、以上五ヶ町の奉納踊が奉納される。

思い出しますと「長崎くんち」も時代の変遷と共に大きく変化しましたね。戦後は特に日本全国が観光産業の振興という事になり、伝統的年中行事も国の無形民俗文化財も全て観光一色に取り上げられてしまったのです。
戦前の「長崎くんち」は御神事だったので、10月の7・8・9の3日間は学校は休みで、8日の「ナカビ」には中学校の上級生は武装して、下級生は正装で学校から整然と隊伍を組んで大波止の警察横に設営される「お旅所」に行進し参拝しました。
戦後は、その御神輿(おみこし)の「お下り」「お上り」の道順も変わりました。そして最近は、お諏訪の長坂を「お下り」の時には、もう走らなくなったそうですね。
長坂と言えば、戦前は女の人は長坂には座りませんでしたが、戦後は男性より女性の方が長坂に多く座っておられ、「女白ドッポ組」というのもあるようで、長坂の風景も変わりましたね。

私の事を申しますと、戦前は神様に奉納する踊を見物客のために解説するなどと言う事は考えられませんでしたが、戦後、たしか船津町の公園で奉納踊を長崎市長が一般市民に公開すると言う事になり、さあ解説という事になり市博物館の林源吉先生と島内八郎先生が担当されたことを覚えています。それから昭和30年頃からだったと思いますが、林・島内の両先生方が定年という事で一応退かれたので、両先生が後見してあげるから、「新任のお前がしなさい」という事で、解説を始めて現在まで公会堂前7日の夜と8日の朝の2回、「長崎くんち振興会」から依頼を受けて解説しているのですから私も随分ながく喋っているものですね。
テレビのクンチ解説ですが、あれは昭和29年頃だったと思いますがNBCが最初で県立図書館の後に館長になられた永島正一先生が歿くなられるまで名解説を續けておられました。私は其の間NHKさんや、KTNさんがクンチの番組を放映される時は良く出ておりましたが、永島先生の歿後は先生の後を受けて今年も7日の午前7時よりNBC局より放送させて戴きます。


第二話

戦後の「長崎くんち」には色々のことがありました。

第一は、おみこし行列を見下したという事件でした。戦前は御神輿が「お下り」「お上り」の時は二階より見ることは禁じられていましたし、亦そのような事をする人も、おらなかったのです。それが戦後すぐの頃だったと思いますが、市役所の所で「お下り」の行列を上から見下していた人がいたと言うので、当時の神社総代の老人衆が之を知って、大さわぎになったのです。新聞にも此の事は大きく取りあげてありました……結局、時代が変わったのですよ、総代達があやまると言う事で幕が下りたようでした。

第二は、何年前だったか忘れましたが全国あげて町名変更が行われた時、長崎の市外は一応了解されたのですが、旧市内の町名変更は「長崎くんち奉納踊」編成の事があって大変だったです。この時、山下誠先輩と私は種々意見を述べさせられたのですが、結局は最初から方針が決めてあったので、どうにもならなかったのです。この時山下先輩が「長崎の人はクンチは忘れまっせんけん旧町名は、のうなってもクンチは、やまるもんですかね、越中さん」と最後に言われた言葉を、私は今になって、しみじみと思い出している。やはり踊町の大半は今も昔の町名で出ておられるのですね。

第三は、次はいくらか学術的な事になるのですが、私が「キリシタンと長崎」と言うことで3つばかり新説を発表したのです。

其の一つは「庭みせ」のことで、これは自分達の家がキリシタンで無い事を証明する行事として始めたのだという説は間違いであると言う事でした。これは簡単に言うと「庭みせ」は信教の自由が言われた明治時代から始まっているので、このような説はないはずだと言う事です。

其の二は、諏訪社内に祀られている諏訪、住吉、森崎の三社内、前二社は博多より勧請され、森崎の一社は現県庁の地(森崎の地)にあった「被昇天のサンマリヤ教会」を禁教令によって取りこわした時、其の鎮魂のため造られた森崎の塚が諏訪社に祀られるようになったもので、このような例は対馬の八幡宮内の例、外海町の枯松神社の例、渕神社内の桑姫社の例と同じで、日本人の心の豊かさを物語るものであろうと論じたことです。

其の三は、昔、諏訪社お下りの行列がキリシタンの妨害にあって、豊後町で道筋を変更させられたという伝承は誤りで、それは長崎初期の道筋より考えてみると初期の長崎の町では防禦のため町の中央には道路を造らなかったからであると言うことを記した事です。

風 聞

○8月末、北海道に帰省されているホテル・ビクトリヤの北山宗雄船長より私が出しました残暑見舞の返事を兼ねての返信に「北海道も夏は終りに近づきましたが、山には、もう一回目の雪が訪れて長袖を着ております」とあった。北海道に行ってみたいですね。(9月2日記)
○先月、長崎三菱造船所に勤務しておられ広島・長崎と二度も原爆にあわれ「米寿まで後一年半」と、「あとがき」に記しておられる山口彊氏より「歌集・人間筏」をいただいた。巻末の「原子雲の下に生命(いのち)を伏せ」の文章。原爆を知っている私達に迫りくるものがあり悲しかった。
○福岡の医学史研究の第一人者・奥村武博士より来年は福岡市で第98回日本医学史学会総会が開催されたので其の準備をしているが、参考資料として「福岡医跡マップ」のカラーの図版と「福岡における医学の発達」(論考)が出来たので、と言うことで貴重な資料を送って戴いた。
○福岡の九州歴史資料館より、2002年研究論集、同館の資料年報、「大分宮と養源寺」論考を戴いた。大分はダイブと讀み大分八幡は筥崎八幡宮の前身とも言われている由。
○九州陶磁文化館(有田町)より柴田コレクション展(10月1日〜12月1日)の案内を戴いた

長崎くんちの風景(2002.10.7)