文教町の純心高校の玄関に円錐状の白い花をつけたヒトツバタゴという高い木があり、其処を通りぬけた処に江角記念館はありました。10月より其の記念館内の教室で歴史文化協会の越中哲也先生を囲んで古文書学を勉強することにしました。
 江戸時代には寺小屋が普及し、庶民の子女達は其処で読み書き算盤を勉強し、往来物という教科書も自由に読んでいたので、「私達も何か長崎に関係のある面白いものはありませんか」と先生にお願いしました。
 先生は「延宝版長崎土産」という本をコピーして各自に配られ、「この本は延宝九年(1681)江戸で出版された長崎の事を版本として、最初に紹介したものですよ」と言われました。
 物語の主人公は上方(かみがた−今の京都)に生れ、家の商売は手代に任せ、長崎丸山見物に出かけてくる当時流行した遊里見物記の一種だそうです。
 文章は東海道を下り長崎に到着している。その様子は次の文章から始まっている。「ことし延宝七年の夏の末、長崎の津に下りつきぬ。思ひしよりは、せまき所にて古郷(京都)にたとへば洛中を廿(はたち)ばかりに分けたらん程して、なりは大津のようにありける……」
 次に「日見峠一の瀬と云ふ所を通るほど、すべて、えしれぬ香鼻に入て、胸心わるく、答へば是なん長崎のにほひと申す」と記してあった。先生から「この長崎のにほひは一体なんでしょうか」と尋ねられた。
 「にほひは一般に五感の中の(匂い)を思い浮かべますが、此処のにほひは長崎という町全体から醸しだされる雰囲気−風情−というように解釈した方がよいようですね」と申し上げた。
 長崎のにほひ(風情)の外に市川森一氏の「夢暦・長崎奉行」の一節に「行列が堂門川に架かる大手橋を渡る頃遠山奉行はある匂に気がつき始めていた…七年前も、この地を踏んだとき同じ匂がした。江戸でもエゾ地でも嗅いだことのない匂・例えば潮の香りに砂糖を塗し、オランダ人が食べるテンプラという油料理で揚げ唐人達の好む漢方の薬を加え、唐寺の線香の匂いをまぜた南蛮菓子の香りとでも申すか……」そして其の正体はジャコウ鼠の特異な糞であった。
 私は平成12年地域講座で南高校の松尾公則先生よりシーボルト日本動物誌の講義をうけましたが、其の講義の中で次のような事をおききしました。
 琉球ジャコウネズミ…「その出現はポルトガル人との交流に始り、本種は日本に居なかった。ヨーロッパ船の寄港地のみに出現している。長崎(外国人の居住地)のみに此のネズミはみつかっている…」と日本動物誌に記されているそうです。
 私は実際に飼育されているジャコウ鼠を見たことはありません。私は其の匂が中華料理に使われている「八角の匂い」に似ていると思いました。中国の留学生が家庭料理として長く肉や魚を使って調理する「紅焼」(ホンシャオ)があります。其の醤油と一緒に煮こんだ八角の匂いが厨房から漂ってきます。これこそ、まさに「中華の香り」です。
 八角とは星の形をした甘草のような甘い香りで、わずかに辛みと渋みがある実です。中華料理のスパイスとして使います。
 ところで今年の夏休み、息子と東京に出かけたついでに両国橋ちかくの「江戸東京博物館」に参りました。展示室の5階中央は吹きぬけになっており、其処にはケヤキ材を使った19世紀前半の日本橋が掛けられていたのです。
 私は遊び心で「長崎土産」を思いうかべながら次のように綴ってみました。「日本橋と云ふ所を過る程に…都而(すべて)えしれぬ香・鼻に入る…とへば是なん江戸のにほひと申す」お江戸日本橋七ツ立ち…私はこの歌を口ずさみながら橋を渡ると江戸城、町割の風景が正面に見えてきました。
 日本橋の由来も書いてありました。1603年(慶長8)架設。橋の長さ68m、幅7mの木橋。我が国交通の出発点。近くには有名な魚河岸、材木河岸、米河岸があり終日にぎわったそうです。
 長崎土産を読み進んでまいりますと、当時遊里の賑やかな模様が手にとるように記してありました。江戸には長崎より古く1617年(元和3)に既に現在の日本橋人形町に遊里ができていたそうです。「後では浅草の吉原に移った」のだそうです。
 「江戸のカタキを長崎が打つ」と言いましたら、いや、それは「江戸のカタキを長崎で打つ」ですよと言われました。長崎と江戸、昔は大いに関係があったのでしょう。
 「長崎のにほひ」について思いつくまま色々と書いてみました。江戸時代は、もう過ぎ去った過去の一ページだと軽く考えることもあるでしょうが、然し私は先人の残した美術工芸をはじめ生活文化活動の一節に直接手に触れてみるのは、それだけで大いに意味があるように感じております。
 古文書を読むことによって、私は文字を介して古人の心に触れることができたような気が致しております。そして亦、古文書に親しんだ事より自分の感性も何か豊かになったようです。
(長崎歴史文化協会員)

風信

日中国交30年記念に先月、特に長崎文化と関係の深い中国古黄檗の地を訪ねることができ、同地の黄檗山萬福寺の副住職が我々が長崎から来たと言う事をきかれて、奥殿より出てこられ全山を私達と一緒に案内下さった上に、帰りには山門前まで御見送り戴き、一同大いに感激し黄檗の地をあとにした。
11月、今月ほど行事がつまっているのは初めてであると事務局の本村女史は言う。4〜5日・10日・14日・28日菅原道真公の千百年祭というので市内各天満宮との共催行事。9日は市民一般公開講座。12日〜14日名古屋椙山女学園の学習案内。11日・18日・25日は長崎学講座開講。23日は浦上講演会。26日は国土交通省と共催新長崎街道を歩く。27日は県社会保険大会講演会などなどが予定されている。
最近の話題2つ。長崎県地方史だより掲載の満井録郎先生の論考「五島灘と有明海…」実にすばらしかった。長崎市八幡町の公民館は軒に尾垂れをつけ、古建築を彷彿させてよろしと言う。
奈良正倉院事務局より第五十四回正倉院展の立派な図録を御贈送いただいた。今回は奈良の大仏の開眼より数えて1250年目に当たるというので聖武天皇、光明皇后、孝謙天皇の冠の他、佛具、双六、投壺などの遊具、古文書等71件。中でも初出品のもの14件は評判が高かった。
本協会の荒木英市氏、多年キリシタン墓碑を研究しておられたが、九州全域のキリシタン墓碑を編集し「九州のキリシタン墓碑」として出版された。長崎学研究としては参考資料として座右におきたい書冊である。(出島文庫刊、3,300円)