昨年7月「第15回ながさき巨樹を見る集い」が東長崎地域で実施された。
 その準備で6月頃より約20か所の下調べをした折、矢上神社の宮司より貴重木のケンポナシ(クロウメモドキ科)が境内にあると知らされ、しかもシーボルトが江戸参府(1826年)のとき、見たのではないかと聞き、さっそく、シーボルト記念館へ出向く。担当学芸委員が出張、後日関係資料数枚を送付していただいた。
 上記のことを、県薬草会長高橋貞夫氏(元中学校長)に連絡。同氏著「長崎の薬草」に記載されていると指示あり、「自分は故外山三郎長大名誉教授より戦時中矢上地域にあると聞き、今まで捜していた。それが矢上神社境内にあるとは」と驚かれ、さっそく、自宅に育ているケンポナシの写真数枚を送っていただいた。後日先生は92才の老体にむち打って見学に出かけられ、私に電話連絡された。
 7月15日(日)、東長崎地域の巨樹を見る集いには、ケンポナシがある関係か全国巨木の会長、伊藤秀三(長大名誉教授)、佐賀県から2名計25名で調査。その時、会長さんは下調べのケンポナシ(幹周り0.97m、樹高9.0m)より大きいのを同境内で見つけられた。
 昨年5月下旬、東公民館で「わが町の歴史散歩」織田武人講師案内で、県指定名勝の地となっている
「滝の観音」の上手、長崎バイパスの上り車線、間ノ瀬インター付近の山側薬師院(元禄元年〈1688〉滝の観音開基、鐵巌和尚の法子一有建立)の跡地にケンポナシの巨木2本があることを偶然にも見つけた。
 さっそく、「県巨樹を見る集い」の世話人、宮崎正隆氏(前諫高理科教諭)に連絡、5月28日滝の観音松本普成住職も同席、測定した結果は、幹周り2.35m、樹高24mと、幹周り1.79m、樹高21mの2本、ど
ちらも樹の高さが20mを超しており、隣接して植え込まれているイヌマキの大木以上に大きな枝を伸ば
して成長し、また樹勢も極めて良好であった。松本住職の話しでは、先年の長崎水害で寺の資料等は流
されたので、いつごろ植えられたか判明できないとの由。
 ケンポナシは平成1 3年発行の「長崎県植物版レッドリスト」では絶滅危惧IB類にランクされている。(絶滅危惧IB類とは、ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が高いもの)かつて岩屋山(長崎市北部)にかなり大きなケンポナシの老木が2本あったそうだが、枯死して今はないので、高橋会長は枯らさないようにと念をおされた。余談だが、岩屋山のケンポナシについては、現在オランダの国立植物標本館にシーボルト自筆の「1827年3月29日岩屋山」(原文はラテン語)と書かれた標本の中にシキミ、モミ、イヌガヤなどと一緒にケンポナシが採集され残されている。
 シーボルト記念館より送付された資料によると、遠目にはヨーロッパの野生のセイヨウナシにそっく
りだが、この大きな高木の原産地はおそらくインドで、インドでは野生状態のものが見られる。
 日本ではすでに数百年も前から栽培されており、たぶん中国から移入されたものと思われる。大きな
葉は一年生で、斜形状の心形になり、その色合いや作りからするとクワの葉に似ている。小さな白っぽ
い花が6月になると現れ、分岐して八方に広がる集散花序につく。花が散ると、花序の枝が肥厚し、やがて肉厚になる。これは食べることができるが、甘くよい香りがして、イナゴマメの風味かまたは、ケンペル(出島商館医、1 690年渡来)がいみじくも指摘したようにベルガモットの風味によく似ている。
薬用としても用いられ、喘息やそれ以外の肺疾患に他の植物と一緒に煎じて飲むように奨められてい
る。さらに、日本の常用の飲み物である米から作られるビール(酒)に酔わないように飲んでおくと予防薬として大変評判よい。

○「注記」ラテン文の記載。図解は川原慶賀で詳細をきわめている。ケンポナシによほど興味を抱いた
に違いない。酒酔いの防止にケンポナシが用いられていたことが記されているが、ケンポナシには酒
の味そのものを変えてしまう効果もあるらしい。
佐賀県伊万里市のケンポナシ(幹周り2.43m、樹高25m)は、佐賀県の名木・古木に指定されてい
る。長崎市でも間ノ瀬のケンポナシも長崎市の文化財に指定していただき、大事に保護されることを
念願している。
○「補則」日本一のケンポナシは幹周り3.6m、樹高1 8m、推定樹齢200年 青森県弘前市下銀町 弘
前公園内 藩政時代から有用樹木として大切にされてきたらしい。
〈参考資料〉
・シーボルトが出版した「日本植物誌」の解説文を紹介した本 講談社
・シーボルト「フロラヤポニカ」解説 講談社
・シーボルト旧蔵日本植物資料展 シーボルト記念館
・長崎の薬草 高橋貞夫著 長崎県生物学会
(長崎市住・植物学研究家)

風信

3月は3日の「女節句」に始り、1 8日より彼岸、その中日は2 1 日である。2 1 日はまた中国の暦法24節の1つ「春分」である。彼岸の語はインドの古語サンスクリットのpa- ra mita(はるかなる大地)を中国で致彼岸と漢訳したと記してある。
先日早朝、中島川ぞいの道を週3日は必ず清掃して下さっている緒方源信先生にお逢いした。先生は私に「一昨日、念願の長崎千本桜の第一号を大井手橋側の歩道公園に皆様方の御協力で植えることが出来ました」と言われた。
この時、私は不図、「中島川を護る会」を組織され活躍しておられた故赤瀬守氏のことを思いだしていた。
長崎千本桜の夢は明治時代すでにあったし、長崎の桜見物の話は古く享保4年(1719)長崎の人西川如見父子が著した「長崎夜話草」に“日見の桜”として其の名木が紹介されている。次いで寺町の唐寺には“南京の糸桜”という名木があると「長崎名勝図」には記してある。
この他、長崎には清水寺の桜の句碑、一の瀬の花見墳の碑がある。
私達の時代にはカルルスの夜桜に安藤の桜餅、高部水源池の八重桜、護釈山の桜があった。そして
長崎の桜見物は長崎名物の“ハタあげ”のシーズンと重なり楽しい思いでが多い。
一昨日、長崎石造文化研究家としては第一人者・大石一久先生より日本山岳研修会誌第30号に発表
された「雲仙山系に見られる大型石塔」の抜刷を御恵送いただいた。私達は之の研究発表によって今まで気づかなかった県下の新しい石造文化について教えられるものが多々あった。特に大石先生作成の県下の石材・塔様式による分類表は先生の長年の研究によられるもので、私達には大いに御教授いただくものが多々あった。
長崎パン屋の老舗東洋軒の桑野省吾社長が来訪され、長崎特産品の1つとして「昔、出島でつくられていたパンを復原してみたいので協力して戴けないか」との事であった。このパン先月の末、「やっと完成いたしました」とご報告をうけた。パンは出島の中では焼く事は許されなかったので長崎の町中に専門のパン製造所があった。当時の記録によると「麦粉65匁にてパン115個造り、1日にパン11個半を出島オランダ屋舗に納めました」と記してあった。