長崎に入港してきたポルトガル船(南蛮船)の模様を一番正確に紹介したものとして、私は神戸市立南蛮美術館所蔵・狩野内膳筆の南蛮屏風をあげたい。
 それは此の屏風に描かれているポルトガル人の服装、長崎岬の教会と其の中で行われている式典の模様、南蛮船の人達を出迎えにでているイエズス会員やフランシスコ会の修道者・此等の事は実際に其の事物を目撃した者でないと描けなかった作品であると考えているからである。
 今回、それらの中でイエズス会員に的を絞って論考してみることにした。出迎えの人達の中に三人の神父と二人のイルマン、そして、もう一人・若者の案内人、そして、彼等の外にもう一人の老人がいることに注目したい。その老人は特別の服を着ていることに気がつかれるであろう。更に、彼等の後には服装の違った二人のフランシスコ会の修道者と街の人達が描かれている。
 従来この屏風の制作された時期は1600年頃狩野内膳が描いたと言われてきた。そこで私は狩野内膳は この風景を何時頃、どこでスケッチしたのであろうかと考えた。それは此の図にいるイエズス会員と共にいる老人の事を研究する事によって必ず返事があるはずと思った。
 この屏風に描かれているナウ(ポルトガル船の船型)は以下のこと より考えて1591年7月の初め長崎 に入港してきたロケ・デ・メルの船であると考えた。
 其の年は秀吉の朝鮮出兵の準備として肥前名護屋(呼子)を中心にしてお城や陣屋、そのための街が建設されていたので、京都の町より狩野派の絵師達も招かれ活躍していたと神父達の記録に記してある。
 この時、長崎にポルトガル船入港の知らせが各地に伝えられた。秀吉はこの時期にはまだ関東にいたので、名護屋にいた人達は長崎に走ってポルトガル人見物に出かけた。狩野派の画家も長崎に走ったと考える。そして、画家達は長崎の風景、南蛮船、神父達をスケッチした。
 その事は屏風の中に描かれているイエズス会神父達の中にひときわ背が高い神父が描かれているが、この人物こそヴァリニャーノ神父なのである。神父は長崎に天正少年使節一行と共に1590年7月21日、アントニオ・ダ・コスタの船で着いたと記録されている。
 そして、其の翌1591年にはロケ・デ・メルの船が7月頃入港している。ポルトガル船は通常7月頃入港し、10月頃の風でマカオに帰っていたが、ロケの船は以下の理由で其の年に帰国することができなかった。
 その理由と言うのは、フランシスコ・ピレスの覚書によるとロケの船は朝鮮出兵のごたごたですぐに積荷の絹の貿易ができなかったので、翌1592年10月ロケの船はマカオに帰っている。そして「此の船に乗ってヴァリニャーノ神父はマカオに帰った。」と記してある。
 フランシスコ会の修道者が長崎に来たのは1593年であり、修道者達は名護屋に行き秀吉に謁見している。
 今1つ、長崎には1592年には1つの出来事があった。それは当時の長崎奉行寺沢志摩守は秀吉の名護屋築城に援助するため長崎の「岬の教会」を解体させ名護屋に送っているので1592年の暮には岬の教会はなかったのである。
 ここで今1つ神父達と共にいる老人の事について考えてみよう。その姿は他の人物に比べて顔面の細部まで陰影をつけ丁寧に描かれている。服装は他の日本人と違い元琵琶法師とよばれた老人を思わせる着物を身につけているが、被っている帽子はイエズス会員の帽子と同じものである。
 老人は右手には杖を持ち、左手にはコンタスを握っている。白い眉の下の目は遠い所をじっと見つめている。当時このような特色をもつ日本人のイエズス会員は、聖F.ザビエルより受洗した盲目の琵琶法師ロレンソりょう斎しか他にいなかった。
 ロレンソは1587年、秀吉のキリシタン追放令のとき、それまで居た京都より長崎に下り、長崎の近くの古賀の教会で2年程活躍したが老年と病気のため長崎のコレジヨに引退していた。
前述のように1590年来航したヴァリニャーノ神父とロレンソは話を交し、1592年2月3日長崎のコレジヨで昇天している。
 以上の事よりヴァリニャーノ神父とロレンソが一緒に入港したポルトガル船を出迎えることができた のは、1591年入港してきたロケの船だけであり、岬の教会も其の年までは建っていたのである。
 当時、ロレンソは京都の町にいた時より有名であったので狩野内膳も注目して老人の顔を描いたと考 える。
 唯ここで加えておくことは、屏風に描かれているフランシスコ会の修道者のことである。この屏風は たしかに1591年の長崎の様子を描いたものであるが、その時期にはフランシスコ会士は未だ我が国に は来航していなかったので、内膳は京都に帰って屏風を仕上げるときフランシスコ会士も加えたと考え る。内膳がフランシスコ会士をスケッチできた時期は、会士達が肥前名護屋を訪ねた1593年か、其の 後京都の町に行った時であると考える。
 以上の事よりこの屏風の下図(構想)は1591年長崎に入港したポルトガル船と町の様子をスケッチ し、それを京都に帰り、南蛮屏風として仕上げたものであると考える。
(長崎26聖人記念館館長)

風信

何はともあれ、中国大陸に近い長崎。新型肺炎の上陸を断固防止するあらゆる対策が必要であると友人は言う。(5月3日記)
それは、水産県長崎におけるホルマリン使用のフグ養殖、三菱造船所の船火事、ハウステンボスの事、長崎方式という政治等と、嫌なことが多く続いたからであろうか。そこに東京の知人よりも電話あり、「長崎ゆめ総体、近まっているが大丈夫かね」と言う。
長崎で6月1日と言えば「長崎くんち小屋入り」の日であるし、長崎では厄入り・厄拂いを行う日として各種行事がある。ここらで長崎市も厄拂いしては、どうですかね。
江戸時代の「長崎歳時記」には、「この日(6月1日)は家々ナマスを作り、氷餅として正月のかき餅をとっておき台に盛りて客に進め厄を拂う」と記してあった。
今月は次の各氏より地方史研究には缺かせない各方面の書物を贈って戴いた。
1. 戦後、長崎史談会の藤木会長を助け復興に協力して戴いた故正木慶文先生が10年の歳月をかけて綴られた「長崎隠れキリシタン記」を長女の田中幹子女史が出版されたもの。(非売品)
2. 永井隆先生の最後の作品となった「十字架の道行」に解説文を加え、信仰の道を語っておられる結城了悟先生の著書「永井隆の十字架の道」。(長崎市西坂・26聖人記念館刊)
3. 森瀬貞先生の歌集第三集「冬の虹」、先生は83才より短歌を同窓の故笹山筆野女史に進められ始められたとの由。大日如来の慈悲いただきて健やかに 九十四歳の新春迎う。
4. 長年、長崎の食文化を研究されてこられた大坪藤代先生、今回それ等を編集され「長崎の菓子」を出版された。(ろうきんブックレット刊・476円+税)