最近、島原半島の西海岸に位置する旧堂崎村(現有家町・昭和31年編入合併)の庄屋江川彦右衛門あてに、文化5年(1808年)頃、島原城下に住む武士や町人たちから出された手紙類が大量に出現した。なかでも目を惹いたのが、「唐芋(カライモ・トウイモ)」の斡旋依頼の文書である。

其の一例をあげると、「〜近頃申しかねますが、唐芋百斤御世話ながら御遣わしくださいます様」、「ついては、唐芋五拾斤、その御村より調え申したく」、あるいは「〜例年御セ話ながら唐芋三拾斤」などである。

これらを読んでいると、泣く子も黙る庄屋江川彦右衛門であるはずの人物が、まるで食糧芋問屋の御主人様といった意外な一面が明らかになってくる。

『ながさきことはじめ』(長崎文献社編)によれば、元和元年(1615)、肥前平戸に英国人ウィリアム・アダムス(帰化して三浦按針)が初めて蕃藷(バンショ)を琉球からもたらしたとある。その蕃藷を、島原半島では元禄4年(1691)、小浜村木指の太郎兵衛、羽毛合の左平の両人が栽培したことになっているが、はたして、この二人がどこで、どのようにして苗を手に入れ、どこで栽培したのか明確ではない。

と云うのは、元禄4年から30年ほど過ぎた、享保6年(1721)〜同1 1 年の記録である『南串山村・村中万品々覚書帳』のどのページにも、隣村小浜で作りはじめられたとするハチン(唐芋)の記述がないのである。南串山村の田畑作物として挙げているのは、「米・大小麦・そば・キビ・ひえ・大豆・小豆・ゴマ・菜種・芥子」などである。これらの作物はすべて小物成として「年貢」の対象となるものであるが、ハチンは年貢対象とならなかったために、耕作され庶民の食料として重宝されてはいたが、一村の秘密として記録されなかったのかも知れない。

長崎の博学者西川如見の著書『百姓嚢・巻4』(享保6年刊)には、「いもは、田家(農家)の糧として上品の物なり。いにしへより年ごとに山家多く作りて常の食とす」とあり、同じく如見の『長崎夜話草』には、「赤芋・琉球芋、二種一類にて、赤芋はすぐれて甘味なり。赤芋は薄皮は紅色にて内は甚だ白し。琉球芋は内外黄色、甘味うすし」とあって、長崎県内においては1720年頃には芋作りが広く行き渡っていることを示唆している。

また、享保18年(1733)、全国の餓死者の数が93万人にのぼった頃、吉宗が九州辺の飢饉の様子を尋ねた時、長崎の人で幕府の儒者であった深見新兵衛は「〜享保6年に長崎へ行ってみますと、ずいぶんたくさん藷を植えていました。そして、それを食用にあてているのです。それが助けになって、このたびの凶作にも長崎はたいした打撃を受けなかったのでしょう」と答えている。

さて、唐芋の斡旋依頼を受けた江川彦右衛門は、それらに律儀に対応している。年貢対象とはならない「食物」であるから、この売買は自由であったと思われる。
「覚 唐芋百斤 お持たせいたします 庄屋江川云々 何々様へ 」、注文の斤目の唐芋が庄屋江川の許から注文主の自宅へ運ばれている。そして、年末になる頃、
「覚 唐芋百斤 代四匁 慥に請取りました 庄屋江川云々 印 何々様 」
ここで、百斤(60キログラム)の唐芋の値段が、4匁であったことが分かる。今の感覚に直すと、1匁が4,000円とされる。百斤で16,000円である。

「月迫(年末)近くなりましたが、お変わりないものと思い、お喜び申し上げます。ところで、唐芋百斤、御セ話になったのですが、年内の払いが出来ないので、甚だ気の毒のことですが、来春まで待って下さるようお願いします。何ノ何兵衛 江川彦右衛門様 」と云うのもある。これらから、慢性的な貧困に喘ぐ島原藩士達の姿と、江戸時代における武士階層崩壊の現実がうかがえる。

ところで、甘藷先生と呼ばれ、昆陽神社祭神ともなった青木昆陽には、享保20年(1735)刊の『蕃藷考』がある。それには数々のイモの功徳が列挙されている。「1畝に数十石も採れる、色が白く味がよい、トロロと同じで薬になる、風雨・病虫害に強い、代用食になる、切干にして保存食となる、菓子となる、酒になる、粉にして餅となる」などと記してある。

そして次に、「芋」が代用食として人気が高かったのは、「米」と同じような加工が出来るからではないかと思えるほど、芋と米との共通点が挙げられている。

ところが、芋で作る「菓子」となるイモアメ・イモギョーセン、「酒」になったイモジョウチューなどを作れる人が、最近、少なくなってしまった。そこで後世の覚えとして次に記録を残しておくことにした。

イモアメ・イモギョーセン〜は芋を蒸して、それを袋に入れてしぼる。その汁を煮詰める。ある程度煮詰めた時、あらかじめ用意していた麦芽(はだか麦を発芽させ、乾燥して粉としたもの)を、煮詰めた汁が、人肌の温度になった時に入れて撹拌すると、出来上がる。

イモジョウチュー〜は芋を切り干しにした白コッパを蒸し、暗室におき人肌に冷えた頃、糀を加え発酵させる。それを絞る。まず、最初の一滴をハナと云う。絶妙の味と云う。

また、今も芋を植える人はいるけれど、それを保存した百姓家の何処にもあった「芋がま」・「定番」は絶滅してしまった。芋の保存には、最低温度摂氏12°が必要だったので、戦前は土間の床下に穴を掘り、そこに翌年の新芋が出来る秋まで、芋が詰めて置かれていた。これを「芋がま」といった。

はてさて、もう芋の時代は終わったのだろうか。昆陽は、芋は「薬になる」とも記しているが、其れは一体どうなったのであろうか。

(加津佐史談会代表)

 


風信

原爆忌がすみ、盆の精霊流しが終わると今年の行事の大半を過したような気になる。恒例の精霊流し実況TVで「来年は私も船に乗せてもらう事になりましょうね」と言ってしまった。
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