平成16年を迎え謹んで御祝辞を申し上げます。
 旧年中は本会が主催いたしました講演会、学習会を始め恒例の研修旅行などの諸行事に皆様方から多大のご協力、ご後援をいただき厚く御礼申し上げます。
平成元年以来発刊して参りました特集「ながさきの空」も本年は第十五集となります。又、本会の活動も各方面より注目を浴び昨年は県市内外よりの来訪者、学生・生徒等の質問事項など年間約3,000件を数えました。
 本年も前年に引き続き「長崎学」を中心にした歴史と文化の発展に寄与したいと考えておりますので御支援下さいますようお願い申し上げます。 野中 元治(長崎歴史文化協会会長)

 先づは新年のお祝辞もうし上げます。
 さて、中国の暦書によりますと今年の干支は甲申(カウ・シン)と記してある。我が国では之をキノエサルと読んでいる。それは申の文字を中国暦法では動物の猿にあてるからである。私は平成4年正月の「ながさきの空・第五集」に「申(サル)年抄」と題して長崎に関連のある猿の事について種々と書いている。それは平成4年が、一廻り前のサル年に当っていたからである。昭和7年5月発刊の長崎談叢第十輯に長崎医専教授の淺田一博士は、この年が「サルの年」であったので「さる漫筆」と題して面白い文章を寄せられている。その書きだしには次のように記してある。
 申の年、正月もあます所いくばくもなきサルる日、サル人より談叢に何か書くようにとの事、落付いた暇も持たサルに、我れ専門の事ならねば原稿の進まサル事夥し、サルにても何か書かサルべからサル故「サル漫談」と題して出しぬ。
 次にサルの語源を論じて「広東あたりにてはMalan、馬来にてはMonyet、オランダはAap、ポルトガルMacaco、ロシヤObezyna、イギリスはMonkey、佛語にSinge、琉球にてはサール。アイヌにてはSaruは尾を意味し、Sara’Ush又はSar’Ushは尾を持てるの形容詞にて、此のSarush又はSaruが猿を意味するという。
松村任三郎博士はの音はSurなりと主張さる。と述べておられる。
因みに1603年長崎のコレジヨで編集されたVocabvlario Da Lingoa De Japan(日匍辞書)よりサルの語を拾うと次のような言葉があった。(土井・森田・長南先生編譯 岩波書店刊)

Saru サル 猿・または日本人が天の12宮を用いるのと同じようにして、年や時間を数えるに用いる物・例 Saruno toqi(午后4時頃)Sarutoqiと言う。
Sarude サルテ 輕卒でじっとしていないで、落ちつきのない手。
Sarufiqi サルヒキ 猿を回らせたり踊らせたりする者。
Sarugacu サルガク 演楽あるいは笑劇を演ずる人々。その人々の間における長あるいは頭をTayu(タユウ)という。
Sarugacu o tucamaturu サルガクをツカマツル
Sarugue サルゲ、猿の毛と同じような馬の毛
Sarumanaco サルマナコ 猿の目のような赤い目
Sarumauaxi サルマワシ Sarufiqi(サルヒキ)猿を回らせたり、跳びはねさせたりする者
Saru namexi サルナメシ 鞣して柔らかにした猿の皮


以上の言葉は400年前、長崎でも使用されていた言葉を当時の神父達が集録し編集したものである。

 長崎学における美術工芸史の先覚者林源吉先生は長崎と猿の話を前田樗軒(文政7年歿−1824年)の「近世逸人畫史」を引用されて「畫人狙仙と噂の多良兵」という論考を長崎談叢19輯(昭和12年1月刊)に発表され次の文より始まっている。
狙仙、長崎の人、浪華に住す。猿を写して畫名一時に鳴る。世に狙仙の猿と称して渇望するもの多し林先生は昭和12年当時、長崎には四幅の狙仙の図があったと記しておられる。但し狙仙の初期の落款は祖仙と記したが儒者柴野粟山が祖を狙の文字に改めたという。然し其の時期はいつ頃であったか不明である。
 狙仙は文化初年までは長崎に居住していたであろうと考えられている。それは本篭町に居住し唐貿易商として財をなした中村嘉右衛宅で描いた猿の図があり、それには当時、唐人屋敷に滞在していた唐船主で医者であり文人であった胡兆新が讃文をよせており、其の文に甲子の年号が記してある事によって甲子の年までは狙仙が長崎に居住していた事が知られる。その甲子の年は狙仙の生歿年より考えて文化元年(1804)であることがわかる。
 狙仙は長崎の人といっているが、私は京都の狩野派の画人であった父及び長兄の森陽信、次兄の森貴信と共に長崎に移り住み画業を職としていたと考える。例えは長兄の陽信の大作が市内鍛冶屋大光寺本堂餘間にある10枚の襖に狩野派の極彩色の桐鳳凰図が現存している事からも窺える。
 狙仙、姓は森氏、文政四年七月二十一日(1821)75才で大阪に歿している。生年は逆算すると寛延元年(1748)生れとなる。彼は文化初年まで長崎に居たとすれば49才頃まで在崎していたことになる。其の間、狙仙は当時長崎画壇で流行していた漢画と南蘋画・洋風写生画の事を学び、猿の眞景図を完成したと考える。
 そして私は長崎滞在中の狙仙は々上方方面を訪ねることがあったと考えている。また伝説として狙仙は猿の眞業を描くために多羅岳に出かけたという。この伝説をきき昭和11年歌人吉井勇先生は高来町湯江轟の滝を訪ね、次の歌をのこされている。

 多羅岳の摩仁の山路のゆきかえり 狙仙の猿にあうよしもかな

 前述のように私は「ながさきの空・第五集」に長崎と猿の事を集録し記したが、三菱長崎造船所内にある我が国初期の洋画家山本芳翠(1850ー1906)筆になる十二支図の中に、「庚申塚」図があること落としていた。庚申(コウシン)とは「カノエ・サル」の日に当る日の事を言い。其の真夜中・青面金剛を祀る塚(これを庚申塚という)に人目をさけ、願い事をすると願成就するという。
 芳翠は深夜ひそかに、女性がお供えの蛤を持ち、海岸の松の木の下にある庚申塚に、緊張と恐怖につつまれ歩きゆく表情を巧みに捉え描いている。(長崎歴史文化協会理事長)


風信

今朝より寛政九年(約200年前)長崎の人・野口文竜が書き残した「長崎歳時記」正月の條を読む。
正月元旦、家々若水とて暁方より恵方の水を汲み、湯をわかし、茶を蒸、神佛に燈火をあげ茶を供し、雑煮を供し、家内トソ酒を飲みて相祝す。
雑煮は、水菜・大根・牛房・するめ・昆布・南京芋里芋 凡そ左六品に餅を入れて出す。但し昔は干しアワビ・煎イリコ(なまこ)を添るを古式とす。
暮(十二月)に用意すべきもの。鏡餅ふた重ね・塩鰤を親に贈りおく事。但・片親のみ時は一かさね。手かけ(1名蓬茉という)三方に紙を敷き、其の上に「うら白」を敷き米をもり・上に根引松を植え、其の周囲に栗・ほんだわら(海草)橙などを置く。玄関には幸木を出し塩魚各種(鰤・鯛・鯨など)12種をさぐ。但し、十三月の年は13種をさぐ。
平成16年本会の海外研修は8月下旬、長崎史談会と共催しチベット佛教遺跡見学会をいたします。ご参加下さい。(会長・原田正美、副会長・高尾、事務局長・川崎道利、顧問・本保善一郎・越中哲也)