今年も、はや水温む候となりました。金魚にはまだ気が早すぎるかも しれませんが、長崎と金魚の深い関係をおたずねしたので、よろしくお願い致します。
  金魚の原産地は御承知の如く中国で、金魚という単語そのものが中国 語です。現在日本で飼育されている一般的な金魚の品種として『ワキン』 『リュウキン』『デメキン』『オランダ』『ランチュウ』などがあります。 これらも中国から渡来したもので、ワキンの初渡来は文亀二年(一五〇二)に現在の大阪府堺市であり、デメキンは明治二十八年(一八九五) に横浜にきたと言われています。
 平成十四年は日中国交正常化三十周年、その上くしくも金魚初渡来五百周年にもあたったので同年九月に三十輪の桜の花と金魚の描かれた記念切手が日本で発行されました。
  リュウキン、オランダシシガシラ、ランチュウなどは江戸時代の中・ 後期に大和郡山や江戸で養殖が始まっているので、これらの種となった金魚は其の当時の交易港である寧波?から長崎に運ばれて来たに違いないと考えていますので、私は其の裏づけとなる資料を捜してい ます。
  また名称についても、リュウキン、オランダシシガシラは日本で新たにつけられた商品名です。中国名は後述の如く別にありますが、渡来当初、長崎では何とよばれていたのでしょうか。
  ランチュウという名前はどうも中国起源のようですが、現在のところ 意味不明で、漢字表記も分かっていません。リュウキンの日本の正式 (?)な商品名は『琉球金魚』(大阪では「長崎」とも呼ばれていました。)。 オランダは『阿蘭陀獅子頭』です。
  琉球、阿蘭陀とくれば、後は清(中国)と朝鮮で、江戸時代に交易のあった四ヶ国の揃い踏みとなるのですが、其れが金魚には揃っています。ランチュウは江戸・京阪ではマルコとも「朝鮮金魚」とも呼ばれていましたし、山陰の松江地方には「南京」という品種が江戸末期以来愛育されています。
 では江戸時代、日本では何故、金魚に異国の名前が冠せられたのでしょうか。現在では其等の名前から短絡的にリュウキンは琉球から、ラン チュウ(朝鮮金魚)は朝鮮から渡来し、オランダシシガシラは阿蘭陀船が日本に持ち込んだであろうと連想されがちです。(阿蘭陀には金魚はいません)金魚の解説書にも其のように書かれているものがあるようですが、実際には原産地とは関係なく、江戸や京都の商人が庶民にとって身近であった此等の外国名を意味なく付け加え異国への夢を含んだ商品名 にしたのだと想像します。
  今でこそ金魚は夏の風物詩として、日本情緒の代表的なものになって いますが、考えてみれば日本情緒がオランダとは変な話です。江戸時代 の庶民は新しく渡来したヒラヒラと優雅に泳ぐ珍奇な姿をした赤い金魚を眺めつつ、意味不明な、およそ魚の名前らしくないランチュウという珍紛漢紛な音感や、異国の国名を耳にして、海のかなたへと想いを馳せるよすがとなるカステイラとも珍陀の酒ともなっていたのでしょう。
 「ランチュウ」という単語の語源については寧波地方の方言であろうと調べているところですが、もしそうであればカステラ、チャンポン等はと同様、長崎から日本中に広まった代表的渡来語の一つではないかと考えています。残念ながらランチュウの言葉は長崎に居付くことなく更に東に行きました。
 中国で金魚の本名は地方、時代によって違いがありますが、「琉金」は「文魚」と言います。それは上から見た姿が文の字に似ているからです。但し中国では清朝末期(一九世紀)にはすでに新らたな品種「高頭」「龍睛」が主流となり「文魚」は過去のものとなりました。然し日本では渡来後、品質が改良され中国の文革後には本家中国に逆輸入され、現在では養殖も始められ、本家中国で日本名の「琉金」の名で呼ばれています。
  ランチュウは中国語で「蛋魚」「虎頭」など呼ばれています。蛋とは鳥などの卵の意です。中国では背鰭のある金魚の種類を「龍種」。背鰭のないものを「蛋種」と大分類しています。
 「阿蘭陀獅子頭」は中国で「高頭」「帽子」「獅子頭」など、現在中国で日本におけるリュウキンのように一番一般的な品種です。寛政十二年 (一八〇〇)に発刊された「長崎聞見録」には獅子頭金魚の図が載せられており、其の形態から現在の「阿蘭陀獅子頭」と思われます。ここで注 目したいのは此の品種に長崎では「阿蘭陀」の名はまだ冠せられておら ず京阪に行くにつれ「阿蘭陀」という名がつけ加えられ商品名とされたようです。
  「出目金」は「龍睛」と書きます。「睛」は目偏に 、ランランとした目の意味です。日本ではよく睛を晴と間違っています。明治二十八年、横浜に渡来当初は「支那金」(明治二十七・八年の日清戦争以前は我が国では「支那」という言葉には憧憬こそあれ、侮蔑的意味は含まれていませんでした)とよばれていましたが、其の後「出目金」に定着しました。
  「和金」は中国語で「紅草魚」「草金魚」「金魚」(草とは一般的の意)。 一六世紀初頭、堺に渡来した頃は本場中国(明朝)にもまだあまり金魚の品種は作られておらず、この種類を明朝でも「金魚」と呼んでいたよ うです。日本では、初めは「コガネウオ」と訓じ、この単語は長崎のイ エズス会で一六〇三年編纂された日葡辞書にはCoganeno Uuo 又はQinguioと記載されています。
  江戸時代初期には主として「キンギョ」と呼ばれ、江戸中期リュウキ ンなどの新品種が出廻りだすと其等新渡来の金魚と区別するために其れ以前から既に日本にいた品種の金魚を「ワキン」(和金)と名付けました。
 ここで記しました事は主として中央の記録を基にしたものです。金魚は正規の交替品としてではなく唐人さん達が個人的愛玩用として持ってきたものでしょうから、残っている正規の資料に乏しいのですが、渡来地長崎には文献、絵画、伝承等があるのではないでしょうか。御存知の方がおられたら、是非お教え下さいませ。よろしくお願い申し上げます。
(長崎大学水産学部卒、現在千葉市在住)

風信

昭和五年五月発刊の長崎史談会編の長崎談叢第六輯に次の記事があっ た。 長崎開港記念日の設定が長崎商工会議所・長崎市役所を中心にして唱 道されていたが、永山県立図書館長、古賀十二郎氏、福田忠昭氏、武藤 長藏教授の四史家に選定依嘱の結果「元亀二辛未年四月二十七日」に決定、当日をもって記念祭を挙行することになった。
その第一回の記念祭は「昭和五年四月二十七日午前十一時諏訪神社において式典をあげ、終わって長崎公園内丸馬場にて余興あり、他に貿易展、記念講演会を開催。」とあった。
私は先輩方に「どうして四月二十七日が長崎開港記念日になったのですか」と、お聞きしたところ、「そう決まったのじゃ」と一言のもとに 退けられた事があった。
戦後は四月二十七日丸馬場の「郷土先賢紀功 碑」の前で開港記念式典が現在も行われてい る。