私と八百叟(やおそう)の事について、お話し致します。事の始めは、昨年、弟がなくなり後処理のため戸籍謄本を取りよせてみましたら祖母田中キチの欄に「伊東惣右衛門二女」とありました事と、私達が子供の時から毎年四月二十一日父につれられてお参りしていた桜馬場の春徳寺の後山に祀られている八十八ヶ所の一つに今年 もお参りしたところ、次の文字が刻んであった事からなのです。 「第四十七番、豫州・八坂寺本尊 阿弥陀如来」。施主 今博多町 田中重吉、同町 玉椿軒、濱町 森伊三次 田中重吉は私の祖父なのですが、その横に「同町玉椿軒」とあるの は一体だれの事であろうかと考え、早速、越中先生におききしたとこ ろ先生は即座に「それは明治時代、鉄翁禅師より南画の指導をうけ 蟹を描かせては日本一と言われた伊東(藤)八百叟(ヤオソウ)の事 で墓は大音寺にある」と言われ、「参考書も多くあるから自分で調べて ごらん」と言われました。 早速、大音寺に行き墓地を訪ねました。墓の入口の塀には家紋と玉椿軒と刻んでありました。墓 地は広く左側の墓碑に「玉椿 軒八百叟 香之墓」没年大正 六年十一月十七日とありまし た。 次いで図書館に行き「長崎 の美術史」「明治維新以後の長 崎」「長崎絵画全史」「長崎県 人物伝」など借り出して読ませて戴きました。 ところで、私の家は代々今博多町に住み乾物雑穀問屋をしていまし たが、明治時代になり濱町方面が商店街として発展してきましたので 店を榎津町に移したのです。 一方伊東(藤)家も代々今博多町に住み奉行所に納める八百屋で、 当主は代々惣右衛門を名乗り、前述の「伊藤惣右衛門」は四代惣右衛 門で、八百叟は五代惣右衛を襲名し、画号を「玉椿軒八百叟」と号し、 私の祖母キチは其の妹であった事もわかりました。 八百叟は子供の時より絵を描くのが好きで父のすゝめもあって、今 博多町のすぐ近くの八幡町に住んでいた南画の名手木下逸雲について 手ほどきを受け、のち心の修行も兼ねて春徳寺鉄翁禅師の許を訪ねた ようです。 鉄翁禅師は実にキビシイ禅師であられ「自分が絵を描くのは物の本 質をたずねる看経と同じ修行である」と其の門下の人達に常に言われていた事は、鉄翁の伝記をまとめた「鉄翁画談」(倉埜煌園著)に詳し くまとめられていました。 八百叟はどうしたわけか、子供の時より蟹に興味を持っていたよう で、良く蟹の絵を描いていたそうです。絵を習い始めたときは家にあ った鋳工亀女作の「蟹」を手本にして描いていたそうですが、或る日、 禅師より「私は蘭を朝に夕にみつめ蘭を描きますが、そこには蘭の真 意がいつとはなしに現われてくるのです。」「あなたも生きている蟹を みつめ、描いてみませんか、そしたら其処に、何かあなたの心の中に あらわれてくるものがありますよ」と言われたと言う。 八百叟の蟹はこうして生れてきたのでありましよう。「八百叟の蟹の 代表作はどこにあるでしようか」と越中先生におききしたら、「あなた のお父様方が援助して創立された稲佐の教專寺の客間に掲げてあった 大額に、大篭にむらがる蟹の図がありましたね」と言われた。私の家 にも当然あったはずなのですが原爆の時になくなってしまったようで す。 次に、その厳しい鉄翁禅師には無邪気な半面があったのですね、其 の禅師の話が語られるとき、八百叟が登場してくるのです。 禅師の好物は打ちたての「ソバ」であったそうです。そこで八百叟は春徳寺を訪ねる時には何時も昼少し前に出かけ、ソバを次の室にお き禅師の前にでかけたという。 私は其の時の様子を各資料を基にして次のように綴ってみました。 禅師と話がはずみ時がすぎ、やがて正午の鐘がきこえてきた。「正午 の鐘」は勿論、現在の市役所の横にあった「鐘の辻」より打ち出され ていたのです。 「禅師もう昼のご飯どきになりましたばい。今日も禅師様が大好き のソバを打ってサンじました。」と言うと禅師「うん、いつも八百叟さ んが持ってこらるるソバは、わしの大好物でしてね、一ついたゞきま しようか。」・・・「ところで八百叟さん、いつも、わしに心をつかう てもろうて有難うね、お礼に何か一つ絵を描いてあげようかね」と言 う。八百叟「いえ、滅相もなか、ソバのお礼に禅師様の画を頂いては エビで鯛を釣るより、ひどうございます」と遠慮するが、結局は禅師 の蘭の図を毎度いたゞいて帰ったと言う。 八百叟の話は「木下逸雲伝」の中にも記してありました。そこには 面白い八百叟の半面があったと記してあったのです。それは、 木下逸雲、慶応二年(一八六六)二月一日長崎を出発、四月江戸に 到着、八月三日または四日横浜より帆前船に乗り長崎に帰国途中、乗 船が沈没し、逸雲水死す。(保存されていた長崎三大南画人の書状(一 |二)。斎藤敏栄著、長崎談叢八十六・七輯)この逸雲の江戸旅行に八 百叟も同行していたという。然し八百叟は横浜より乗船した逸雲の船 に乗りおくれたため、水死することを免がれたと記してある。このと き八百叟が乗船に遅れた理由を面白く「八百叟、吉原に遊び、集合時 間に遅れたため、船に乗りおくる」と記してありますが、逸雲の乗船 地は横浜であってみれば前夜から横浜に宿泊していたはずですから、 八百叟が吉原で遊んでいては乗船できなかったはずです。八百叟は何 か他の理由で乗船できなかったはずです。 (長崎歴史文化協会協力委員)

風信

四年ほど前から毎週月曜の午前中開催してきた長崎学講座。最近は講師陣も多彩な顔ぶれで其の発表内容も「二代目天勝と長崎」(吉田信之氏)、「長崎クリニング物語」(木原妙子氏)、「江戸まで歩いて」(餅田健氏)などなど実に面白かった。
本会でも「春秋には史跡を歩きましょう」と言う事になり、四月十四日には新設の勝山町の「サント・ドミンゴ教会遺跡」見学。二十一日は「弘法大師の日」に因んで「延命寺」参拝。五月五日には「滝の観音」参拝、花供養と「植木市」を見学。十一日は崇福寺にて媽祖様誕生会に参加し福州卓子料理をいただいた。
京都「野村美術館」より本年度の「紀要」を戴く。同美術館の「茶の研究」は高く評価されていて長崎では中々入手困難の資料である。近年発表された研究としては「中国の茶文化と日本の茶文化」(呉詩 地氏記)、「茶経述評」(顧氏記)、「州窯黒釉茶器について」(薜翹氏劉勁峰氏)他、大いに参考になった。
純心大学より平成十六年度開催の「長崎学講座」開講の発表があった。本年は「長崎学事始め」と題し九月二十五日開講、十二月十一日までの間に十五講座で其の内二回は現地研修とあった。定員八十名、受付順とある。