今は、電報といえばお祝いや、お悔やみの電報を思い浮かべられるであろう。
然し、私が長崎電報局でモールス通信の仕事に就いた昭和二十五年ごろ、家庭では電報が来たといえば、「ハハキトク」や「チチシス」と言うような暗いイメージを思われがちであるが、実はその時代でも、急を要する商品発注、商品発送、あるいは送金などの商業用電報が九割を占めていたのである。次に電話が普及してくると、商業電報の比重は低くなり、現在は、慶弔電報が大部分である。
余談だが、昭和二十五年末に年賀電報取扱いが再開されると、一般の年賀電報に加えて、長崎無線電報局を経由し南氷洋の捕鯨船団から全国向けに大量の年賀電報が発信され、元旦に配達できるようにと夜も寝る暇もなく通信に追われた年末の頃が思い出される。
今は、どの家でも電話があり、携帯電話も固定電話以上に普及しているが、電話が発明されたのは一八七六年で、一八四四年に実用化されたモールス符号による通信よりも遅かった。
そこで欧米では先ず電報通信網が急速に広まり、わが国でも明治維新以後、電報通信網を設置する動きが始まっている。明治二年、東京・横浜間でモールス方式による通信が開始され、また海外からは、デンマークの大北電信会社がヨーロッパから上海を経由して長崎まで海底線を敷設し、明治四年(一八七一年)十月に長崎で海外電報の取扱いが始まっている。そして同年の十一月にはウラジオストック-長崎間の海底線も完成し、長崎を中心にヨーロッパ、アメリカ間の海外通信を開始している。
海外と日本国内通信の窓口が長崎となったことにより、長崎-東京間の電信線の建設が急速に進められた。電信線建設に当って、世間の抵抗があったり、電信線の下を扇子をかざして通ったとか、東京の子供に送る荷物を電信線にぶら下げた、というような珍談は昭和六十年に連載された長崎新聞の「モシモシ世相」に詳しい。
明治六年(一八七三年)長崎で、わが国最初の国内電報取扱いが開始された。この業務は、現在の全日空ホテル・グラバーヒルで開始されている。そして、同ホテル入口右手に、「国際電報発祥の地」「長崎電信創業の地」の記念碑が建てられている。明治維新後、産業の近代化、軍事化が進む中で電報通信網は整備されてなかったが、大正時代になると、電報通信網が精力的に整備され、電報取扱局も急増し、併せて電報数も増加した。当時は、電報通信の正確性、迅速性が強く要望され、技術レベルが高い通信技術者の増強が急務となった。
この要望に対応し、逓信省は通信技術者を現場養成から、通信技術を体系的に養成する専門機関での育成に変更した。このことにより大正十年全国に逓信講習所を開設し、長崎には現在、麹屋町公園になっている地に長崎県・佐賀県を受け持つ長崎逓信講習所を開設した。そして同所は、昭和二十三年熊本逓信講習所に統合されるまでの間、約三千名の通信技術者を送り出した。
電報通信の大まかな技術的推移を見ると、当初は高度な技術を要するモールス方式であった。次いで第二次世界大戦後昭和二十年以降、通信方式はモールス方式から高速な印刷電信方式に切り替えられ、昭和三十
年代にはそれまでの主流であったモールス方式は、主要有線通信回線では使用されなくなったので、モールス通信技術者の養成は昭和二十八年ごろまでで終了した。
モールス通信の無線は、一八九五年(明治二十八年)にマルコニーが無線電信実験に成功し、わが国でもただちに翌明治二十九年(一八九六)無線電信研究に着手。明治三十六年(一九〇三)海軍が五島の福江島に
建設した大瀬崎海軍望楼所(現在は灯台)では、明治三十八年(一九〇五)の日露戦争のとき、信濃丸から「テキカンミユ」との無電をキャッチし、日本海海戦を有利に導いたという歴史を秘めている。
最近の映画でも有名なタイタニック号といえば、一九一二年(明治四十五年)に氷山と衝突して沈没し、一五〇〇名が亡くなった船であるが、この船が無線でモールス信号のSOSを発信した第一号の船であった。更に、これを契機に翌一九一三年(大正二)に国際会議が開催され、一九二九年(昭和四)に国際条約で救難信号はSOS(モールス符号で…---…)となった。
船舶から発信される電報は、日本では全て銚子と長崎無線電報局でモールス通信により受信し、国内全ての電報通信網に送り込まれた。然し最近では、無線通信だけで使用されていたモールス通信は平成十一年
(一九九九年)国際条約に基づき、世界中をカバーする衛星通信方式に全面的に移行したので、公共通信の役目を終えた(九州においては、諫早市の長崎無線電報局での業務が最後となった)。
脱線するが、私が長崎無線電報局回線で受信しているとき(チンタツサセコイ)という電報が同じ船から何通も来た。先輩に其の意味を訊ねたところ、「青島(チンタオ)を発つから佐世保(サセボ)に来い」、という意味だという。電文の基本料金は十字までだったので、基本料金以内で上手に内容を省略した電文だった。
最後に、九州内の逓信講習所や熊本電気通信学園の卒業者により、昭和二十六年に熊本電気通信学園(九州内の通信技術者育成を集約した組織)内に九州逓友同窓会が設立されたが、間もなく通信技術者の養成が終わり、会員の減少、高齢化等により解散された。
そして、この会の解散を機に、先人の業績を記念して「長崎逓信講習所之跡」の碑を平成十二年、西日本電信電話株式会社長崎支店と九州逓友同窓会長崎支部一同の連名で前記麹屋町公園内に建立した。
此の記念碑建立については長崎市や地元の方々の御理解と御協力を得たことについて紙上をお借りしてお礼を申し上げたい。
(元 九州逓友同窓会長崎支部長・社会保険労務士)

風信

毎年、九月発行の「ながさきの空」には「長崎くんち」の事を平成元年第一集発刊以来十五集まで編集し、殆どの事を記しつくしたので、今年は新たに整備された二、三の事を拾うことにした。
「長崎くんち奉納踊」は国指定重要民俗文化財に指定されているので、新たに何か加えるとしても出来るだけ伝統をふまえて整備されねばならない。今回、旧小川町では原爆で失われた傘鉾を新調しているが、
此の製作に当っては旧小川町の人々の資料収集は大変なものであり、完成まで「足かけ五年かかりました」と言われる。
旧本古川町さんの奉納踊は、明治以来「江戸町の兵隊さん」「本古川の軍艦」として有名だったが、終戦後は軍艦を「御座船」と変更したので「お囃子」から新調せねばならず、今年は亦それに「新趣味の船まわしや、お囃子奉納」を加えましたと吉田会長の話があった。
その他、樺島町のコッコデショ、西古川町の川船、出島町のオランダ船、紺屋町の本踊、大黒町の唐人船の事に付いては、「ながさきの空」第三集と第十集掲載の私の解説を御参考にして戴くとよい。
「長崎くんち」に引き続き十月十四日、十五日は「伊良林くんち」奉納の若宮神社「竹ン芸」がある。「竹ン芸」は今年より国指定重要民俗文化財」に指定されているので、之も見学しておかねばならない。
本年八月予定していた恒例の中国研修旅行チベット行きを中止し、本年は十月末|十一月初旬、孔子廟のある曲阜を中心に泰山、済南、煙台、青島の古代中国遺跡研究を長崎史談会と共催し開催する事にした
ので、参加希望者は事務局上田まで御連絡下さい。(八二三-七六五七)会長原田正美・副会長高尾昇・事務局長川崎道利・顧問本保善一郎、越中哲也