私の実家は明治初年、大浦でクリーニング屋を開業していたのです、という話を、長崎歴史文化協会の越中先生にお話したら、「それは面白い、資料を集めて書いてみないか」と言われる。
 早速、私は実家の資料や叔母たちに話をきいて回りました。長崎に最初に来た私の実家山口家の初代は「山口善吉」とあり、出身地は福岡県浮羽郡吉井町の出身で父は山口團蔵、母はミヨ。「善吉」はその「次男」
と記してありました。そして善吉の没年は大正二年十月とありました。
 善吉は若い頃長崎に来たそうです。それも明治前だったようです。それは戸籍簿をみますと明治元年一月十五日南高来郡山田村久米茂三郎二女ハルと結婚しているからです。そして明治三年「重吉」を養子として迎えているのです。ところが明治五年には実子吉松が生まれているのです。当然吉松は次男として登記してありました。
 吉松は一時竹内家に養子に行っているのですが、二十六才の時、再び実家の山口姓に籍を移してありました。それは長男重吉が大正十年三月二十二日北高来郡戸石村石田冨士太郎・チノの三女キエと結婚しているのですが子どもが生まれなかったので、「善吉」は「吉松」を再び山口姓にもどしたのであろうと考えられます。
 また、明治四十三年の十一月の「善吉」の記録には、「善吉」は「重吉」を離別したと記してありました。
然し其後大正二年十月善吉没後一ヶ月、再び善吉家内ハルは「重吉」を山口家に復籍させています。
 父や伯母達の話をききますと明治時代の大浦には大浦川を中心に八十八軒のクリーニング屋さんがあったそうです。先日越中先生に見て戴きました資料に「明治十五年洗濯仲間規約」がありました。其の時、先生より「これは大事な資料だから」とほめて戴きました。
 その規約書には「各自平等に利益を得て、洗濯物の委託者に対し便宜をはかるを目的とす」と第一条にありました。続いて当時の役員や係も決めてあり、組合員は大浦川の認可を受けた場所で洗濯をする事。組合員は毎月三回大浦川の清掃に従事する事など、記してありました。当時の大浦川は米をとぐ事も出来るほど澄んでいたし、各自の家には井戸も掘られていました。
 当時のクリーニング店で現在大浦に残っているお店としては、青田クリーニング店と私の実家山口クリーニング店の二軒のようです。青田さんのお店は明治六年の創業でロシヤの人達を主にした御用達で、山口の方はアメリカ・イギリス等の御用達だったそうです。
私の伯母梅子おばさんは「若い頃にリンガーさんのお家に集金に行っていたよ」と話して下さった事がありました。
 「石鹸」は全て中国から輸入し使用していたそうで。そして祖父の兄弟等はよく上海まで石鹸その他の物を仕込みに行っていたそうです。山口洗濯店は前述の曾祖父善吉、二代重吉(私の祖父の兄)、三代吉松(祖父)、三代善太郎(私の父)当代(四代)は私の弟吉郎が店をついでおります。
 曾祖父善吉の時代(元治・慶応・明治にかけて)善吉はアメリカ領事館を中心に御用達を命ぜられ大変もうかったのだそうです。当時は米艦隊が入港すると其の注文を一手に引きうけていたそうです。艦船の物は特に急がれるので日本人より何倍も高い料金がアメリカ海軍より支払われていたそうです。父は曽父より其の時の話をきき、私達にも良く当時の豪勢さを話して下さいました。
 曾祖父善吉は明治十三年長崎大浦地区の氏神・大浦諏訪神社の役員となり京都より「山神様の御神璽拜受」に尽力し其名が同社の記念碑に刻んであるとの事でした。そして勲章も貰ったそうですが、何の功績の賞だったのでしょうか。私の手許の資料ではわかりませんでした。
 大正二年十月、善吉はなくなり大浦妙行寺(浄土真宗大谷派)で盛大な葬儀が行われています。その時の「葬儀写真」と「山口家室内葬儀飾写真」二枚が残っています。
 二代重吉は「丸山花月を購入営業す」と記してありました。江戸時代より続いた引田屋花月が何時頃より廃業したのか越中先生にお聞きしたら「長崎市政百年史」の昭和四年六月十二日の条に「花月経営不振にて山口氏廃業、以後長崎料理専門料亭として転業」と記してあると教えられた。すると重吉が本業のクリーニング屋と料亭花月を兼業したのは昭和六年頃からと考えてよいようです。そして、当時の「花月座敷写真」も残っています。
 重吉と妻キエとの間には子どもはできませんでした。重吉の妹イネ伯母さん、スエ伯母さんも花月の経理のような事をしていたそうです。
私の他の伯母達も重吉小父さんが経営していた花月には、戦前はよく出入し、可愛がってもらった記憶があると言われます。重吉伯父さんがなくなったのは昭和十一年八月二十一日大学病院にて亡くなると記してありました。
 私の祖父吉松(三代)は前述のように善吉の実子として明治五年に生まれ東山学院を卒業、大変な人で英語・ドイツ語・ロシヤ語・中国語と自由に話せる人で、松ヶ枝町四十二番に外人相手に石炭・食料品・洗濯物一切を取り扱う商社を構え、明治三十年南高来郡守山村小川千年一の娘ヒデと結婚一男七女を儲ける子福でした。そして私の父善太郎は吉松の後妻ヨネとの間に生まれています。
 そして、其の吉松は大正年間、友人の保証倒れで祖父以来の財の大半を失ったそうです。それで私の父達兄弟は大変苦難の道を歩かれたようです。吉松は昭和十六年八月三日亡くなっています。
 伯母達のお友達が私に「あんたん家うちは、ふとか洗濯屋ばしよんなさったとよ、使用人は六十人以上もおんなったとよ、そして吉松小父さんは子ども好きで子ども達と一緒に遊んでくださったとよ」と話して下さった。
 吉松の妹イネ(明治十七年生)は山口クリーニング店全盛時代の娘で東京の女子大を卒業し、後にボルネオ島でゴム園を経営していたイギリス人と結婚、後、長崎に帰国、大浦のフランス領事の隣に住まわれ、私達が行くと「ばあちゃんが美味しかアカチャ(紅茶)ば入れてやるね」といわれ、フレンチも作ってくださいました。ココアの入れ方もイギリス式、シンガーの手ミシンがあり、私は洋服も作ってもらいました。
(歴史文化協会員)

風信

今年の夏は猛暑、それに数回の台風、更に先月末には新潟の大地震。平成十六年は実に大災害の年でありましたね。
然し、今年も余すところ、あと一ヶ月「早く新しい良い年」を、お迎えしたいと考えている。
本年より長崎市では新しい企画として「さるく博」を提案され、本会の会友からも協力者として多くの方が参加されている。長崎の新しい観光の糸口として是非、成功されることを願っている。
然し何故か長崎の古い俤が昨今は次第に失われてゆくのは寂しい。
次に、今まで色あせて暗い感じがしていた馬町諏訪神社下の地下道に野田照雄さんが描かれた色彩ゆたかな「長崎くんちの傘鉾」の図が掲げられ、其の数が増すごとに、暗い地下道が次第に明るくなってきたのは何となく愉ばしかった。
十月二十二日純心大学主催で東西文化交流の記念講演会の講師として「茶の文化史研究家」として有名な熊倉功夫先生の「世界史の中における茶の文化史」のお話し、受講者一同、大いに感動させられるもの
があった
多良見の歌人山本辰雄氏より財務省財務総合政策研究所主任調査官寺井順一氏の近著、「苦悩の蔵相たち」を戴いた。
戦前・戦後の財政金融政策の展開が広く述べられており私に大いに参考となった。