新年のご挨拶
(長崎歴史文化協会会長)久保 博之
  平成十七年を迎え、謹んでお祝辞を申し上げます。
旧年中は当協会が主催いたしました、講演会・学習会をはじめ恒例の研修旅行などの諸行事に対し、皆様方から多大のご支援、ご協力をいただき厚くお礼申し上げます。
 おかげさまで、当協会の活動も各方面より注目を浴び、昨年度は県市内外よりの来訪者は約三千人を数えました。また、平成元年以来発刊してまいりました、特集「ながさきの空」も本年で第十六集となります。
 本年も「長崎学」を中心に、長崎の歴史文化を研究し、地域文化の発展に寄与したいと考えておりますので、引き続きご支援くださいますようよろしくお願い申し上げます。

酉(トリ)年によせて
越中 哲也
 明治五年十二月二日を以て、我が国は従来使用してきた中国式の「月の運行を基として作られた暦」(太陰暦または旧暦)より、主として欧米が使用していた太陽暦(グレゴリオ暦)に改めることになったと言う。
そこで、明治政府は翌十二月三日を以て明治六年一月一日と定めている。
 すると当時の人達は、十二月分の給料や、十二月末に支払う約束のあった料金等その他大いに混乱するものがあったと諸書に記してある。
 その明治六年の記録には「今年明治六年癸酉年」と記してある。太陽暦には当然旧暦のように「子丑寅……」という十二支はないはずであるが、当時の人々は従来使用してきた「十二支の名称」を捨て去ることができなかったし、現在の我々も亦「今年は酉(トリ)年である」と言っている。すると明治六年の「トリ年」より数えて今年は十二回目の「トリ年」となる。
 中国の暦は二千三百年前の殷の時代に始まり、其の暦を「太陰暦」として整備してきたのは諸先輩方の論文によると、前漢の文帝の時代(二一六四年前)からであると論考されている。そして此の中国の暦法が我が国に伝えられたのは六世紀頃からであろうとされている。以来我が国では中国の太陰暦法により明治五年まで進められてきたのである。
 その中国暦法の基本は十干(甲乙丙丁……)と十二支(子丑寅卯辰……)の組み合せによりなっている。干の意味は幹みきであり、支は枝であると説明されている。其の中国の暦法によると今年は「乙酉(イツ・ユウ)の年」に当り、我が国では古来この文字を「キノト・トリの年」と呼んでいる。
 本来、中国でも酉という文字にはトリ(鳥)という意味はなく、酉という文字は、中国で「酒を盛る器」をあらわすもので、Qとは何の関係もないが、唯十二支の文字にある「酉」は中国でも古来より鶏をあらわすと二千年も前からきまっており、其の理由については、どの書をみても「判然とせず」と記してあった。
 唯、「Q」の文字の、奚は音符をあらわし。佳は尾の短い鳥を現わす中国古代の象形文字からきたものであると言う。中国の古書「説文」には「Q知時畜也」とあり、「玉篇」には「鶏 司農鳥」とあり共に「にわとり」は古代より時間に関係ある鳥とされている。
 鶏の中でも「金鶏」という言葉がある。それは勿論鶏の美称であるが、古代中国史の伝説では「天上の玉衡星」が散じて金鶏星となり、それが地上に下って鶏になったのだと言う。その金鶏の中でも「翰音」がよいという。中国の古書(`記)の中には「翰音」とは「鶏の異名である」と記し、其の注解の書を読むと、「翰の文字は高く飛び、長く鳴く鶏」をあらわすと記してあった。
 そこで鶏は鳥類の中でも「めでたい鳥」と昔から言い伝えてきたのであると言う。
 先年、私達は中国洛陽と西安の間にある有名な「函谷関」を訪ねた。
最初、私達は「箱根の山」にもおとらぬ難所であろうと覚悟して行ったが、そこは長江に沿った低い丘陵の谷間にあったので非常に驚いたが、説明を聞くと函谷関には新旧の二関があり秦時代には、もっと山間部の霊宝県にあったものを、漢初に現在地に移したとの事であった。
  次に私達は、此の関所でおきた「史記」に記してある有名な孟嘗君伝の「鶏鳴拘盗」の故事を思いうかべながら、二千年前の古道を歩くことにした。その物語というのは次の事である。
 孟嘗君とは、中国戦国時代(二、三〇〇年前)当時の諸侯の間で賢者として聞こえた斉の王であった。この王の威名を恐れた秦の昭王は、孟嘗君を秦の都に招き、暗殺しようと謀った。これを知った孟嘗君は昭王の愛妃の一人に取り入り、愛妃が「狐白裘を私に下さるなら」という。
然し白裘は彼の手許になかった。其の裘は昭王の倉の中にあることを知った孟嘗君は、彼の部下である食客の一人に盗みに巧なものがいたので、之を盗ませ妃に献じた。妃は何に彼というて昭王に口添えしたので、孟嘗君は其の夜・姓名をかえ、秦の都を夜ぬけ出し、秦国の関所「函谷関」まで走ってきたが、関所の門扉は鶏が鳴かないと開けてならぬと言う。
 秦王の追っ手が来るという。「史書」には此の時の事を「客のうち下坐にいる者の中に鶏鳴をよく真似る者あり。而して鶏ことごとく鳴く。
遂に伝を発して出ず」と記している。
この故事は我が国でも早くより大いに語られていたようで、清少納言の「枕草子」の中にも彼女が男性への返事として送った次の歌がのせてある。
 夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ最後に「長崎と鶏ばなし」の二、三を紹介することにする。

風信

第一は、寛政年間(一七九〇|)足かけ六年長崎に来遊していた京都の医学者で博物学者広川 の著書「長崎見聞録」に烏骨鶏のことにつき次のように記している。
長崎に烏骨鶏(うこっけい)を嗜(たしなみ)飼ふ人多きなり。全白毛にて或は黒班あり。冠足みな微黒を帯たり。此卵補虚の佳品にて、其価も常卵に倍する事なり。
第二は南蛮料理の事を記した「料理物語」(一六四三年刊)にでてくる鶏料理がある。
鶏の毛を引き、頭と足としりを切り洗い鍋に入れ、大根を入れ、水ひたひたに……(この料理が後世「鶏の水たき」となる)
三は、司馬江漢の西遊日記(一七八八年)に記してある鶏料理がある。
長崎に鶏肉を喰ふ……江戸の鶏肉・皮いたりてこはし、骨いたりてかたし。肉も筋多くして剛し。ここのもの魚の煮たる如く箸にて肉骨と良く離る、肉いたってやわらかなり。……
第四には江戸の蘭学者大槻玄沢の「紅毛雑話」や「長崎名勝図絵」に記してある「出島オランダ正月」の時、用意された鶏料理を拾うことにした。
大蓋物(味噌汁)鶏かまぼこ、玉子、椎茸。・コテレット鶏、胡椒、肉豆冦の花、ねぎ。・ラーグー鶏たゝき丸めて、椎たけ、ねぎ、すましあんばい。
(長崎歴史文化協会理事長)