長崎の街を歩けば、沢山の観光客に出会う。特に大浦、浦上、新地、出島の観光地や浜の町の中心街は長崎を訪れて来た人達であふれている。
観光客は個人、団体の旅行客、修学旅行の生徒、外国人など様々である。
彼らが長崎に落としてくれるお金は相当な額で、観光事業が長崎経済の活性化に繋がる事は言うまでもない。

観光客が長崎市内の商店、ホテル、食堂、交通機関、その他へ支払う金は、市中の各部門にしみわたり、長崎全体を潤し繁栄させている。
外国人が落とす金の比率は、全体から見たら少ないが、貴重な外貨である。
それは長崎を栄えさすだけでなく、日本の国際収支に貢献する。
彼らは長崎で買い物をして、その商品を自国に持ち帰るわけであるが、それは丁度貿易業者が品物を日本から外国に輸出し、外貨を獲得する事と何ら変わることがない。
従って外国人の買い物が「見えざる貿易」(invisible trade)と言われる所以である。

私たちも、旅先で良い印象を受けたり、楽しいことがあったら、再び行こうという気が起こるし、その反対の場合には、二度と行く気分が起こらない。
時々長崎へ来られた中年の旅行者から、「学生時代に長崎に修学旅行で来て、懐かしいので今回は家族を連れて来た」と言われる。
長崎人として実に嬉しい。

再度其の地を訪れる旅行者をリピーターと言う。
「繰り返す人」と言う意味である。私は一昨年、長崎にゆかりの深いポルトガルに旅行したが、その国土やポルトガル人の魅力にすっかり虜になってしまった。
ポルトガルに行く事は、東の果ての極東の国日本から西の果ての国に行く事であり、遠距離で渡航費用も馬鹿にはならないが、金の都合がつけば是非リピーターとして行きたいとの夢を持っている。

かつて長崎県庁に勤務し国際課で来崎される外国人のお世話をしていた時、東大に短期留学されていたネパールのピレンドラ皇太子が、お忍びで長崎へ来られたので気楽な気分で市内をあちこち案内し大変喜ばれた。それから11年後に、今度は国王として王妃や政府要人を引き連れて、国賓で長崎を訪問された。
大名旅行ならぬ国王旅行である。私との再会を喜ばれ国章入りのカフスボタンをくださり、家宝としているが、この時、外務省に国王が希望された日本での訪問地は、東京、京都、長崎のみだった。それは前回の長崎の印象が大変よかったからであるとおききした。

昨年私は中国の西安にリピーターとして訪れた。一度目は四年前、長崎中国語クラブの先輩から誘われ、西安の知識も殆どないまま同行した。
そのとき私は現地の人と話し中国語会話力を高める事が目的であった。
そして私は西安空港に降り立った。西安はその昔、長安と言った有名な都だった事しか知識がなかった私だったが、長安時代の留学僧空海の事績や、仏教伝来のルートの遺跡や資料に接し、それに又当時長安の都には、既にキリスト教(ネストリウス派、景教)が布教されていて、空海もキリスト教に接したらしい事などを知り興味が沸いたので、帰国後、東アジア史を研究し、昨年再び乗り込んだのである。

西安の人達にとって、私は単に観光客の一員に過ぎないが、観光の本質というものは単に経済面だけの利点に止まらず、学術文化面での寄与や国際親善に非常に貢献するものと今回は肌で実感したのである。

現在、長崎には引きも切らず北は北海道から南は沖縄までの、日本各地の修学旅行生がやって来る。
学生達は教室で学んだ「日本で唯一の海外への窓口」であった長崎にじかに足を下ろし、生きた日本史を勉強し、実り多き収穫を得て帰校するに違いない。

今一つ我々長崎人として意義あることは、来崎する一般の人であれ、学生であれ、外国人であれ、この長崎の地で原子爆弾の被害の実態を知り、核兵器、核戦争の恐ろしさ、平和の大事さを学習できることである。

原爆投下の時、私は旧制県立長崎中学の三年生で、その炸裂の瞬間の恐怖、引き続く市内の救援活動などでその悲惨さを身を持って知っている私は、その意義を人一倍感じる。

上述のように、観光というものが経済、文化、国際親善などに果たす役割は非常に大きい。

我々長崎人は昔から、ホスピタリティの精神に富み、日本の各地や、外国から来た人を、よそ者扱いせず、異文化に対しても壁を作らず、心を開いて受け入れて来た暖かい心の持ち主であった。
この長崎人の特性は無形文化財と言ってもいいのではあるまいか。

現在の全国的な不況の折り、長崎の更なる発展の為にも、より多くの観光客に来て貰いたい。
長崎の産業は造船、水産、観光と言われて来たが、現在造船は横ばい、水産は停滞している。
その中で明るい展望の持てるのは観光である。

その為には、観光のことは県や市などの行政機関に任せるだけでなく、我々長崎人全部が観光事業への意識を高め、長崎の事をもっと勉強し、観光客誘致のベテランにならなければならないと思う。
そして単に観光に来られる方々に接する際の親切な態度だけでなく、長崎の街のことや歴史を知らなければならない。行政機関に対しては、建設的な意見を述べると共に、説明その他の間違いには忠告するという勇気も必要である。

最近、長崎市内を「らんらん」という鮮やかなオレンジ色のバスが走っている。観光客の利用者も多い。
走行中は長崎の説明がテープで流れている。どこまで乗っても100円である。長崎駅から出発したバスは大波止、出島、と海岸通りを経て、新地、浜の町、思案橋、崇福寺を巡り、中通りを横断し、中央公園の横を通過し、坂を上り市役所前を通り、長崎駅へと向かい一周するのである。

ところで、一寸気になることがある。
新地の説明をする時「以前は、長崎県上海市と言われていた」との解説をしていた。
これは間違いではなかろうか。
昔から長崎人は上海に限りない親しみを持っていた。
それは、長崎から東京まで汽車で三十六時間もかかっていたのが、上海までは船で二十六時間で行けた。
上海の在留邦人の三分の一は長崎県人で長崎弁が幅をきかせていた時代があった。
上海を親しみのあまり「長崎県上海市」と呼んだ人もあると聞く。
しかし時代は変わっている。
現在も、そのように上海市とよんで良いだろうか。
皆様のご意見を伺いたい。(元長崎県庁通訳)


風信

有事法の制定は社会情勢からみて当然、私達も認むべきでありましょうが、何か其の先に忍びよる物があるように思うのは私だけなのでありましょうか。
6・7月は晴耕雨読の季であると言ったら、早速、私が予てより読みたいと願っていた関根眞隆先生の名著「奈良朝食生活の研究」「奈良朝服飾の研究」(共に吉川弘文館刊)の二部を送付いただいた。先生は正倉院の調査室長であられ此の方面の研究では第一人者であられる。
北京大学大学院に留学中の小園晃司さん来訪され色々と現代中国の事を話して下さった。早速、私は本紙に原稿をお願いしたら心よく引き受けて下さった。其のとき私に劉建輝さんの著書「魔都上海」よまれましたかと言われた。発行所は講談社との由。早速取りよせて読む。成るほど長崎の人は一読しておく本であった。
次いで1出島文庫の中島謙二氏来訪、本を持参された。私は永田信孝先生著の「新ながさき風土記」と野村義文先生の「島原半島町村変遷史」に興味を引かれてよんだ。
先日、兵庫県加古川市立神吉中学校より長崎の言葉・風習・中国文化について学習したいとの申し込みがあり33名の生徒が2班に分かれ来訪。帰校後、生徒さんの1人1人より御礼状を戴く。其の文に「長崎はすごく空気がおいしかった。」「長崎の先生からほめられて、すごくうれしかった。」「長崎人は本当に平和を願っておられるのですね。」等々とあった。
佐賀県伊万里市の盛峰雄先生により、8月21日夜7時より伊万里山代地区で700年も続いている「大念佛踊」があるので見学にこないかと電話あり、希望者を募り見学に行くことにしたので参加希望者は事務局本村まで至急ご連絡下さい。
(TEL 095-821-1540)