「日常性に気をつけること」この言葉は近代絵画の父と呼ばれたポール・セザンヌの言葉だったと思いますが。−絵かきは日常性に気をつけて生活すること− この事は簡単なようで、仲々意味の深い厳しいことを言っているように思えます。日々の生活の中に埋没すれば、目の前の茶飯事に捉われ、創作へのエネルギーを忘れていく事を言っているのかもしれません。
私が勉強していた若い時代は、芸術至上主義とまではいかなくても、自分の才能、将来、現実はどうあれ、自分は画家を志しているという若者特有の酔いがありましたね。古今東西の芸術家、天才と言われている人達の仕事は、天上のもの、絶対的なものという認識で唯一無二という範囲でした。
私は18才の頃より絵を描き始めたので、現在まで約50年近く絵を描いてきた事になります。同時に、自然界への畏敬の念もそのころから持ち始めていたようです。平凡な四季折々の風景に接しながら幼年、少年、青年期と成長し、その中で絵を描きたいという初原的な心の芽ばえがあった事を今うれしく感じています。大正・昭和初期の封建的な時代、やがて軍国主義・戦争の時代、そして敗戦。戦後の食糧難、学制改革と、成長するには充分な時代ではなく、何か貧しさに右往左往しながら生活したのに、今ふりかえると自分の貴重な心の財産になっているのです。皆が苦しい生活であったのに各々の喜怒哀楽、人や生き物に対する思いやり、いいも悪いも日本人という美徳の中で成長してきました。母を思い出すまでもなく、周りの人々の生活ぶりは各々に大地に強く足をつけた存在感がありました。生活を囲む自然環境、澄んだ大空、白い雲、夜の星空、月夜、無音の夜の闇、林や木立の群、山や野原、素朴な空間の美しさ、川面や木々を渡ってくるそよ風、屋根をうつ雨の音、加えて季節の花々や昆虫の世界もあって、どんな人の悲しみも、不運も、包んでくれるような生活空間がありました。

そして、今、経済的な物差しが世界民族の意識を変え、風俗や宗教心をむしばみ、崇高な自然の破壊と再生不能な大事業を続けています。インドの聖者マハトマ・ガンジーは「地球は人間を養うことはできるが、欲望を満たす事はできない」と言っているし、最近はある科学者が「人間という動物がいなければ、地球は永遠に緑の美しい星だろう」と言っている。
以上2ツの言葉は皆で真剣に考えるべきでしょう。

物を創作する人々には現在の整備された生活環境や便利な生活用品は、創作を助けてはくれるかも知れませんが、決して土壌にはなっていないようです。創作、制作の発露にならない不毛の土壌の多い生活空間は少しずつ物を作る人々の感覚を背後からマヒさせているのではないでしょうか。たくさんの作品−ビデオ・写真・コンピューター・ソフト等を使った綺麗な作品群−が制作されていますが、二次的発想源を感じ、ストレートな感動力には乏しい感じがします。魚釣りではありませんが、眼の前にちらつく美味しそうなエサが溢れている生活環境は、物をつくる人達には危険な日常かも知れません。

この夏、6・7・8月と第87回二科展が東京都美術館で開催されたとき“竹林の中”と題し作品を描き出品いたしました(160p×160p)。ハラハラと雪の降りこむ竹林の澄明な冬の風景をねらい描いたのです。それは、ここ私の仕事場−長崎市郊外・茂木古場−の周りにある有名な茂木の竹林を見ている内に、子供の頃の冬の竹林が浮かんできたのが原点になったのです。

先にも書きましたが、貧しかった戦前の困窮の日々にふれていた四季折々の豊かな自然現象、どんな科学技術も、どんなにお金を積む財力があっても買えないし、再現することの出来ない、それはあたりまえにある自然現象との触れあいの中で育った事が、今、絵かきとしての生活の中で、どれほど救いになっていることでしょうか。(長崎市高取町在住)

11月3日は「文化の日」であり、誰方か芸術の話を掲載できたらと考えていたところ、本会委員の田村士郎先生の御世話で、長崎県下では唯お一人の二科会・会員で審査員もされている馬場一郎先生の原稿をいたゞくことができ、深く感謝申し上げている。先生本当に有難うございました。(越中記)

風信

本年は本会が十八銀行各位の御援助で昭和57年5月創立してより20周年になるので、本会の機関紙「ながさきの空」特集号を発刊することにして準備を進め10月末日「創立20周年特集号」を発刊した。内容は「本会20年の歩みを中心に嘗て長崎を代表する芸術品として評判の高かった長崎べっ甲細工について97才の菊地藤一郎翁の若き日の思い出を編纂している。」ご希望の方は歴文協事務局まで連絡下さい。(無料 但し送料各位負担)
各方面より先日は長崎三菱造船所における大火について「長崎の経済界は大変だね」とお見舞の電話をいただいた。皆さんで長崎の事を心配して下さる其のお気持が嬉しかった。
日中国交正常化30年ということもあってか最近は孫文を援助した長崎出身の梅屋庄吉についての問い合せが多かった。
古き良き時代の俤を今に色こく残しているものを5ツばかり教示ねがいたいと言う。私は第一に茂吉の歌にもある唐寺(興福寺・聖福寺)を先ずあげ、次に東古川町の通りをあげ、新大工町天満市場あたりのざわめき。くんち最終日の夜の踊町の風景。長崎の家庭料理の味の5ツをあげておいた。
宝塚の幼きイエズス会修道会のSt.相川ノブ女史より一昨日、長崎とも関係の深い幼きイエズス会の創立者メール・ジュステーヌのフランス文書簡集を翻訳完成し出版したのでお送りしますと言う電話と共に226頁ご勞作の著書のご寄贈うけた。St.相川は浦上簗の人で、もう80才は越えておられると思う。「翻訳には何年かゝりましたか」と私が申し上げたら「10年はかゝりましたが楽しかったですよ」と元気に話して下さった。1880年10月21日ジュスターヌの書簡には「神戸から長崎までの船旅は36時間かゝります。日本の船は小さいが良く整っています。それに私達日本語が分かるので困ることありません…」と記してあった。