なかにし礼先生の小説、「長崎ぶらぶら節」で有名になった長崎丸山梅園天満宮のすぐ近くの「行満院」というお寺で私は生れたのです。
 寺の石垣の下にある道路の向うは丸山町で、花月も、中の茶屋も、梅園天満宮も全て子供の時には駆け廻って遊びました。
 中でも天満宮の境内は、いつも子供達の遊び声が絶えなかったのです。春は天満宮の池でオタマジャクシを掬い、夏は広い藤棚の下で紙芝居、冬は節分行事と夜おそく迄あそび廻っていました。
 誰も居なかった筈の天満宮に紙芝居の小父さんが来ると、いつの間にか子供達が集まり、水飴をなめていました。近所の兄さん達が時々、子供達を集めて肝試しをして下さいました。
 天満宮境内の稲荷堂の裏をひと廻りするのですが、外灯もない眞暗い中を歩くので、何が飛び出してくるか怖くてキャーキャー言いながら押されて歩きました。
 時には小さな子供を遊ばせたり、まゝごとをしたり、喧嘩もしました。楽しい思い出ですね。その頃兄は、いつも私と一緒にいてくれました。学校に行く時も遊ぶ時も。なかでもお使いは二人でぶらぶら行くのが楽しくて、新しく路地道を発見して、その道が抜けきれた時のよろこびは特別でした。

 幼な日の記憶たどりて抜けてゆく 丸山裏町石だたみ道
 兄と二人秘密と言ひて抜けし道 昔のままなり兄なき今も

 兄はとても器用で、お手玉、鞠つき、おはじき、十二竹、時にはママゴトにも参加したり、ゴムとびをしていました。私も男の子の遊びのコマ廻し、日月ボールなどもしていました。
 本当にのどかな日々が続いていたのに昭和16年12月、太平洋戦争が始まったとき、私は国民学校の1年生でした。そして父がいつも土産に買って来て下さっていた、私の大好きなシュークリームが消えたのも其の頃からだったと思います。
 それまで坊ちゃん刈りだった兄が、丸坊主にされて泣き出した時、私も並んで泣きました。
 戦争をまだ理解できない私でしたが出征する小父さん達や、お兄さん達が梅園天満宮で武運長久を祈り、萬歳に送られてゆくのに幾度も出逢いました。私を可愛がって下さった近所のお兄さん二人も、いつの間にか居なくなられ、ある日、真白な水兵さん姿で御挨拶に来られて、其の帽子を珍しがった思い出があります。
 私が大好きで馬乗りになって遊んだ天満宮の前にあった青銅の牛さんが、やはり襷を掛けて出征し、私の寺の本堂にあった青銅の花瓶もローソク立ても皆陶器に変ってしまいました。
 昭和17年1 2月、確か学校が冬休みに入った夜だったと思います。今の丸山公園の場所にあった遊郭が全焼し、炎は料亭花月にせまっていたそうです。私の家は花月の裏門を抜けると、すぐ前でしたので花月の貴重品が私の家にどんどん運びこまれたのです。そして私の寺の本堂が花月の荷物で一杯になってゆくのを私は障子の陰からのぞいていました。
 本当に大変な火事でした。寺の本堂の大屋根にヒラヒラ飛んでくる火の粉を水にひたした「火たたき」でたたいていた父やお手伝いの人の声や姿が今も思い出されます。
 まだ小さかった二人の弟と布団にもぐり込んで、ふるえていた私ですが、其の時の火事場の匂いや火事場の音が今も私には鮮明に残っているのです。
 丸山は火事が多く、戦後は山の口あたりで火事が相いついでありましたが、この丸山遊郭の大火に比べられるものではありません。
 やがて丸山公園が其の大火にあった遊郭の跡地にでき、丸山町と寄合町をつなぐ広い道ができ、消防所の建物が建ち、以来、丸山には火事がなくなりました。
 昭和19年頃には花月の上、「中の茶屋」に防空壕ができました。其の壕は「中の茶屋」の庭園にあっ た築山をくり抜いて造ってあり警報が鳴るたびに逃げ込み、壕の中で朝を迎えることも時々ありました。
 間もなく、もっと大きな壕ができ、深夜警報が鳴ると街燈もない暗い道を両手に幼い弟達の手を引いて、道に引かれた白線をたどって避難して走るのは本当に嫌でした。今でも夜の火事のサイレンが鳴る と、其の頃のことが不図、思い出されます。
 我が家の前に小田太熊さんと言う人が居られて、私設の文庫を開かれ、娯楽のなかった戦時中に子供達の為に無料で本を讀めるようにして下さいました。玄関を入るとすぐの部屋にビッシリと本が並び、 奥の六疊に大きなテーブルを置き小田さんが座っておられました。
 まず、きちんと両手をついて挨拶をしないと「やり直し」と叱られました。帰る時も同じ挨拶をして貸して戴いた本を大事に持って帰ったものです。
 戦後は丸山の交番にMPが立ち、だんだん三味線の音が聞こえなくなり、向いの置家さんで仕込さん達が習う三味線の音がとぎれがちになりました。丸山もだんだん芸子さん達の姿がなくなり昔の情緒がうすらいでいくように思えました。

仕込みさん達の習う三味の音今はなし 丸山花街の石も古りたり

 梅園天満宮、そこは古賀十二郎先生、愛八さんの名で有名となりましたが、私にとっての天満宮は、今は無き御池、藤棚、桜に梅の木など思い出いっぱいの大切な、なつかしい心の故郷なのです。
 身巡りを過ぎ逝きし人ら浮び出づ 深き思ひの残るそれぞれ

(長崎・諏訪短歌会会員)

風信

何はともあれ、本誌の4月号が発刊される4月20日までには、イラク方面の人達の上に自由と平和が戻ってくる事を原爆の災害を身にうけた長崎の一人として切に願って止まない。
4月8日はお釈迦様の「花まつり」の月であり、お釈迦様の経文の中にも「国豊民安 兵戈無用」である可きだと述べておられる。この言葉が今更ながら思い出される昨今である。
丸山町自治会長松浦さんより「なかにし礼先生の文学碑」を6月初旬には梅園天満宮に建てたいとの連絡あり。
4月24日は旧3月23日で、媽祖様(海の神様)の誕生日に当るので崇福寺媽祖堂に参詣にこないかと崇福寺総代藩さんより連絡をうく。(参加希望者は本会事務所本村までTEL.821−1540)
長崎史談会宮川雅一会長より自著の「長崎歌碑・歌跡を訪ねて」を寄贈うけた、長崎の文学散策には付録の地図もあり大いに参考になる良書であった。(出島プロダクション刊・1,000円)
有家町史談会より島原半島の歴史民俗研究誌として「嶽南風土記・第1 0号)を寄贈うけた。私は其の内「島原城下町の構成」木田正己、「屏風下貼り反語拾話」福田八郎、「天草軍記の資料解題」鶴田文史、各氏の論考 に心ひかれて讀ませて戴いた。(南高有家町力野有家町史読会・杉山儀太郎刊・1,000円)
来月で本会は創立21周年になりますよとの連絡をうけた。次いでFMスマイル社の香月ディレクターより、「あなたが毎朝放送してこられた“長崎トーク”も10周年になりましたよ」との連絡があった。