末次興善は、16世紀の後期、長崎開港当時に博多と長崎で活躍した商人である。長崎市の“興善町”は彼の名に由来している。また、彼は朱印船の船主で、長崎代官になった初代末次平蔵の父親でもある。生没年は不詳。ポルトガル宣教師の手紙やフロイスの日本史などに登場する博多のキリシタン商人コスメ・コーゼンは、彼の事であると言われている。
 長崎県立図書館の郷土資料室で武田芳満子氏が書かれた「朱印船の王者末次平蔵一門の系図」を読んだ。その中に興善に関するエピソードが数多く紹介されている。ひとつ一つのエピソードの時代背景を考えながら、私は空想をたくましくして楽しむことができた。その空想の課程を話しましょう。

○末次興善の生没年はいつか
 天正18年(1590年)、天正遣欧少年使節がヴァリニャーノ神父に伴われて長崎に帰国してきました。一行が上洛のため博多の街を通過するとき、コスメ・コーゼンと言う信者が宿舎の提供を申し出てヴァリニャーノ神父が辞退した、そのとき「コーゼンが73歳であった」とイエズス会神父の報告書にある。
 その後、彼の名をキリシタンの文書の中に見ることがないと言う。彼の生年はこの事より想定できる。没年は判らないが、その後の長くない時期に死んだので文書に登場しなくなったのだと考えている。興善の墓地は、京都・博多・長崎など諸説があり判然としない。死亡した土地も不明であるが、私は娘婿のいる秋月で教会とお寺の鐘の音を聞きながら静かに死んだことにしたい。秋月のキリシタン墓地に葬られたとしてもおかしくないし、それは長男の博多の家や次男の長崎に居る末次平蔵の家で死ぬよりも、そのほうが安らぎを私は感じるからである。彼は禁教令が厳しくなる前にクリスチャンで天国に召されたと思いたい。大永6年(1526年)に生まれ、文禄元年(1592年)頃に死んだと想定したのは、少々強引な結論でしょうか。

○どのような経緯で中国に渡航したのか
 「秋月を往く」という本によると次のように記してある。
 弘治2年(1556年)、興善は明の将軍から明王の子供を預かり日本に連れ帰った。その子は、興善の婿養子になり秋月氏に伺候し、その後、秋月の長生寺の住職になって124歳で入寂した。
 当時、明国から平戸に渡来していた倭寇の親分「王直」が博多の商人を舟山列島の双与嶋に連れて行っていたという。興善も商売の勉強のために王直の差配の下で明国渡りをしたのでしょう。明国の将軍と友人の仲になるほど彼の滞在は長期間だったに違いない。後年になってからのことだが、ガーゴ神父が病気でインドのゴアに帰ることになったとき、興善が中国の知人に紹介状を書いたというから、興善が中国に渡航したことは信じてよいであろう。
 いつ初渡航したのか不明だが、私は、天文21年(1552年)と想定する。それは侍だった興善の父が商人に転向した可能性の高い時期だからである。それは前述のような明国の王子を預かる5年前に設定してみたからである。
 どこに渡航したかは判らないが、泉州とアモイ周辺と想定したい。双与嶋にしなかったのは、私は、興善に泉州の街で「西遊記・孫悟空」の人形劇を見てもらいたいという願い以外のなにものでもないのです。その頃、「西遊記」の物語りが出来てから20年ばかり経っているからです。

○キリシタンとしての商人興善
 信仰を守ってルソンに追放された高山右近と、家臣の奥さんに横恋慕して内戦の種をつくる大友宗麟、どちらもキリシタンですね。興善はどちらかといえば“宗麟的”であると思う。フロイスの日本史に書かれた興善の雰囲気は、信者としてよりも後援者とみているように、私は感じる。
 博多の廻船問屋である興善の長男宗徳はキリシタンでないようだし、次男の平蔵は長崎代官になった後はキリシタンの弾圧者であったし、娘婿の興善善入はお寺の住職になっている。
 興善は、あくまでも商人であって、宣教師からは教会にとっての最大の資金提供者と見られていたのではないだろうか。息子平蔵の朱印船経営の投資資金は、興善によって造成されたと私は睨んでいる。
(長崎市在住)

風信

6月は行事が多く企画されているので私に「取りまぎれ事が、ないように」と事務局担当の本村女史は心配される。
たしかに6月の行事は多い。先ず銅座町の小屋入り参加に始まり、事務局のある桶屋町の年番町。
毎週月曜午前は長崎学講義、毎週火曜午前は古文書学。5日は国土交通省と市内道路見学会と加古川市立中学生の来訪。7日午後キリシタン文化研究会。8日なかにし礼先生文学碑除幕式。13日片淵中落成記念講演会などなどと後半に続いている。
片桐一男先生の論考をみていたら、上野彦馬が1862年(文久2)秋頃、中島川畔に職業写真家として上野撮影局を開始した事より以前、1861年(文久元)すでに江戸両国薬研堀に「影真堂」鵜飼玉川が開業したと報告されていた。(洋学史研究第20号)
好酒家に朗報をきいた。友人が高野山土産にと持参した銘酒の説明書に「昔、弘法大師が、寒冷を凌ぐに塩酒(おんじゅ)一盃これを許」と言われ記してあった。「但し、一盃だけですぞ」と友は言う。「これこそ、般若湯の始めであろうか。般若の原語はpannaとあり、「悟りを得る真実の智慧の事」とあった。
九州歴史博物館より「東洋における民族スポーツ特集号」を寄贈いただいた。ペーロン、蒙古相撲、鶏闘などなどがあり、中でも私はパリー島のサボテンを手に持って争うイカレカレの記録は興味を持って読ませて戴いた。(九州国立博物館建設準備会機関紙74号)
上記本村忠行氏の論考はホームページhttp://www5a.biglobe.ne.jp/ .nsanpo/
に掲載中。また、活字本で「かつてに末次興善伝」あり。(〒850-0845 長崎市上小島町4-1-34)まで連絡下さいとの事。