先日、長崎歴史文化協会の越中先生とお会いした時、先生は私に「長崎くんちも近いし、お父様が伝えられた竹ン芸の事、何か書いて下さい」と言われた。私は早速、お引き受けしてしまいました。

竹ン芸の歴史については越中先生が記述された『若宮神社史』の中に執筆されている「竹ン芸」の章に詳しく記しておられるので「竹ン芸」を研究されたい方は一読されると良いと思います。

父・下川軍一は明治26年、長崎市伊良林二丁目字次石という若宮神社のすぐ上にある農家の長男として生まれました。この事が若宮神社の奉納踊竹ン芸との関係を深くしたのだと考えています。父は子供の時から体が軽かったそうで、見よう見まねで自然と青竹の上での演技を身につけたのではないでしょうか。

越中先生の御研究によると「竹ン芸」は昔より長崎くんちの奉納踊のだしものとして八百屋町が奉納しており、其の時の竹ン芸を奉仕された人達や、囃子方は全て片渕方面の人達だったそうです。そして若宮神社に初めて「竹ン芸」が奉納されたのは、明治29年1 1月24日、若宮神社の改築工事が完成し御遷宮式が行われたとき、其の奉納踊として奉納されたのが最初だったそうです。

其のときの模様は、伊良林の人達が笛、太鼓を習い、三味線は伊勢町の師匠大橋クニさんが弾き、竹ン芸は八百屋町の奉納踊竹ン芸に参加された片渕町後ン谷の浦川吉松さんが勤められたそうです。後には吉松氏の長男浦川留次郎さんも加勢にこられて初めて男女二匹の狐の芸が見られるようになったそうです。

其の頃から父も竹ン芸に参加していたようです。

実りの秋、私は毎年この時季になると、父が緊張した中での晴れやかな表情を思い出すのです。それは今も私の心のスクリーンの中に映し出されてくるのです。その時の父は若宮神社の秋祭りのとき青竹の先端で「白狐」になって華やかに舞う姿なのです。

青竹を弓なりにしならせ、「竹ン芸の囃子」にのって竹に足をからませ両手を竹から離し、観客は此のとき一同に「オーッ」と声を発します。その度に私は両手で顔を覆い正視できませんでした。周囲の皆さんが声を発する度に耳を押さえ、目をつぶりました。

次に皆さんの拍手で、父が無事に舞い納めた事を確認して「ホッ」と安堵したものでした。私が10代の頃の話です。当時は狐役は父一人だけで登っていたようでした。囃子方の笛・太鼓の人達は矢上の中尾から、三味線は伊良林二丁目のおばあさんでした。

父は場所をかえて、ある時は長崎市田上の合戦場(運動場)、またある時は「三菱会館」で竹に登っていた記憶があるのですが、何故、父がそのような場所で実演したのか其の理由は、わからずじまいでした。

父は実家の農家をはなれ九州配電(九州電力)の外線係の仕事をしていましたので、13メートル以上もある竹の上での妙技は、外線係という仕事の関係もあっての事でありましょう。実家の近くには竹林もあり、竹の性質もよく知っていたのでありましょう。竹ン芸に使用する竹は真竹を使用するそうで、父は其の真竹の生育している場所も外線係として各地を回る関係上よく知っていたようでした。その真竹も若竹ではなく3年ものが良かったそうです。

その真竹を切り出してきて、家の庭で組み立て練習をしていました。それは良く“しない”、子供心に直角に近いほど曲っていたような記憶があります。

ある日、父が白布を私にわたし、「狐」のシッポを作るようにと言われました。長女であった私は、まだ10代でした。苦労しシッポを縫いあげました。然し狐衣裳の其のシッポの縫い付けはさせてもらえませんでした。父は「狐」は神の使いだから衣裳には絶対に他人の手を触れさせなかったのではないかと思っています。

その父・下川軍一は昭和20年8月9日の原子爆弾で生命を失ってしまったのです。

戦後、若宮神社の若宮くんちの復興が伊良林地区青年団より持ちあがったそうです。当時の青年団長は松永正則氏でした。松永氏は県庁に勤めておられ、且つ柔道家として県を代表する選手の一人としても有名でした。そして正則さんの母は私の父の妹であり、正則さんが叔父軍一の竹ン芸の型を覚えていた事と、当時は私の兄、利一も元気でしたので、二人は相談し、当時の連合青年団長であった越中先生のご協力を得て、昭和23年10月15日戦後最初の竹ン芸を若宮神社に奉納されたとの事です。

実際に竹に登ったのは正則さんに薦められた若宮神社のすぐ前におられた草野時良さんが狐になられて竹に登られたそうです。当時、時良さんは19才だったとお聞きしました。お囃子の笛・太鼓は越中先生が記録をたどって矢上村中尾(現在長崎市)に永田市郎さん・中山繁男さん・浦山与八さんという人達を訪ねて準備され、三味線は市水道局におられた守屋氏のお母様守屋ますさん(明治20年?伊良林平に生る)が伝承されている事を聞かれて若宮神社の竹ン芸の囃子方に加わって戴かれたそうです。

以上、私の子供の頃からの記憶を基に父・軍一と「竹ン芸」との出会いをまとめてみました。父は母の亡き後、男手一つで4人の子供を育てつつ地域の伝統行事の伝承に尽力していたのです。偉大なる父、尊敬する父。私は今、父を下川家の誇りと思っています。墓は光源寺本堂のすぐ上にあります。

澄みきった青空に溶け込む「白衣の狐」、そしてそこに私はいま父の姿を描き出すのです。

(長崎市在住)


風信

8月21日 長崎県にある念佛踊(チャンココ・オーモンデ、大島須古踊など)の元祖となった伊万里脇野の大念佛踊見学会に参加希望者19名で出かけた。さすが700年の伝統ある民俗芸能であった。夕食は地区婦人会の人達の手造り精進料理で材料は全て自家の野菜を持ちよられたとの事。品数も多く、「ご自由におかわりして下さい。」と言われた。たき込み御飯は特に美味であった。

8月22日 長崎県高校家庭クラブ指導者養成講座が彼杵町文化会館で開催され出席。県下の高校生300名が集まっておられた。会の運営は全て高校生であった。講座は佐世保南の井上みずきさんの開会挨拶、会務・決算報告(長崎北・橋口佳恵、長崎北陽台・矢口夏季)家庭クラブ紹介(松浦東高・前田さつき、畑島友美、松永美早紀)。午後の分科会では箏曲(諫早商高)、三味線(川棚高)、華道(清峰高)、声を出してみよう(有馬商高)、和菓子(口加高)など活発な研究発表があった。
この高校生の活力には本当に感心させられた。そして閉講の挨拶は波佐見高の千代田香織さんだった。

9月25日 みろく屋さんの主催と本会の清島和枝女史の特別後援もあって、我が国最初のシルクロード探検隊(大谷探検隊)100年記念として、その足跡を訪ね、新しい発見も齎された竜谷大学より、女性として初参加の高林由美子女史を招き記念講演会を開催することになった。会費不要・ご自由に御参加下さい。(9月25日(木)午後7時より)会場・アマランス(市民会館地下)

旧知の平原さや子女史から、すばらしい本を贈られた。女史は86才であるとの事。本の題名は「コルマの墓に眠る」とあった。文は先ずロサンゼルスより女性記者が平原女史を訪ねて来ることより始まる。私は息もつかずに一気此の本を読んでしまった。そして平原老女史の文才には今更ながら驚かされた。
  (長崎文献社刊税込1,050円)