長崎は我が国で最初のヨーロッパの音楽が教会を通じて伝えられた処だそうです。

 私は現在、小さな音楽スタジオとドラム教室、そして時には演奏もしているのです。

 先日、市立博物館で「弘化元年阿蘭陀使節立山役所に到る図」を見せて戴きました。なんと、そこには軍楽隊が描かれていました。軍楽隊の編成は16人、先頭には立派な服装をしたサイド・ドラマー2人 と、その後に2列で14人の管楽器、その中にアルトサックスらしい楽器がありますが、サックスは1842 年に発明されたばかりの楽器です。使節が長崎に来航した弘化元年は1844年ですからオランダ軍楽隊 は当時最新の楽器を持ってきたことになりますね。

 あとの楽器類はホルンやラッパ類です。この行列はオランダ国王ウイルヘルム2世が我が国に開国を 勧告する国書を使節ユープスに持たせ幕府に奉呈するため、軍艦パレンバン号に使節を乗せ長崎に来 航、立山奉行所に向う行列を写したものですが、この行列、とりわけ軍楽隊は当時の長崎の人達にと っては驚きの音だったことでございましょう。
 
 ここで、私は軍楽隊の先頭を歩いたドラムについて少し説明を加えておきましょう。
 
 ドラムをいくつか組み合わせたものをドラムセットと言います。基本セットの構成は、まず金属で できたシンバル類。これは通常のリズムパターンを刻むときに使用するライドシンバルやアクセント をつけるときのクラッシュシンバル、ペダルがついた二枚1組のハイハットシンバルがあります。

 次に太鼓類。足でペダルを踏んで音を出すバスドラム。和名で言えば大太鼓で低音を担当します。

 次に、音色の幅を広げたり、表情を豊かにする、中太鼓のタムタム。少し大きい太鼓のバス(フロア)タム。そして、小太鼓のスネアドラム。マーチングバンドではサイドドラム、またはパレードドラムと言います。

 このスネアドラムは、裏面の皮にスナッピーと言う波を打った針金が張ってあるので、スネアドラム特有のバリバリとした音色や、細かくて素早い連打のロール奏法による、ザーっと言う音色を得る ことができ、きびきびとした行進をする時にもってこいの太鼓と言えるでしょう。

 サイドドラムと言われるのは、ドラムを肩から吊り下げて歩くので、片方に寄せて歩く事からきた言葉です。 軍楽隊ではミリタリーサイドドラムと呼ばれます。

 スネアドラムは、16世紀になるとヨーロッパの軍隊に採用されるようになり、ドラムの奏法が長崎海軍伝習所の教科にもなっていることから、ポルトガルやオランダ船の来航の際も行動指示のための太鼓信号用として日本にやって来ていたと思われます。

 次に日本人がこの西洋の軍楽を取り入れたのは何時ごろだったでしょうか。江戸時代・蘭学の研究 が始められた時、そこには洋式調練と共に軍楽についても研究されていたと思います。

 その一人に長崎の人高島秋帆(1798〜1866)は1841年江戸徳丸ヶ原で幕命により洋式調練の実演を行っていますが、この時、多分鼓手を随行させていたと考えられます。

 その後、安政2年(1855)7月には長崎奉行所西役所内(現在県庁の地)に幕府は海軍伝習所を設立、 オランダ士官、下士官20余名を教官として造船・数学・砲術・医学などを伝習させています。そして、その中にオランダ海兵隊の太鼓信号(蘭式太鼓)が正式に紹介されていました。

 当時、長崎の地役人であった上原寛林は安政3年(1856)に「西洋行軍鼓譜」を、日本の太鼓の記 譜法に倣ってオランダ太鼓の信号譜を作り発刊しております。

 その太鼓信号譜というのは、調練での行動指示のための仕度太鼓・指揮太鼓・押陣太鼓の音譜のこ とです。

 また安政4年(1857)第2次長崎海軍伝習所教官として来航したカッテンディーケは彼の「日本回想録」に「私が初めて日本の人達にマーチ(太鼓の行進譜)を紹介した」と記しています。

 その後この長崎から、江戸幕府だけでなくオランダ兵制を採用した各藩にこの西洋鼓譜が伝えられ、 幕末維新期には数多くの鼓笛隊が編成されました。

 弘化3年(1846)の「長崎くんち」には江戸町が子供達によるオランダ兵隊の行列を奉納していま すが、その中に紅毛楽器をつかった軍楽があり、この音楽を聞いたR.ホーチュンは彼の著「江戸と北 京」の中に、この子供達の音楽のことを記しています、余ほど感激したのでしょう。

 1869年(明治2)イギリスの軍楽長フェントが薩摩島津藩軍楽伝習隊に軍楽を伝習し、翌年にはロ ンドンから金管などの楽器一式が届き、現代の軍楽隊に近い編成ができ上がっています。

 1886年軍楽隊の退役楽士6人を中心に民間職業バンドの市民音楽隊というブラスバンドが結成され、1909年には学校のブラスバンドが、1911年にはアマチュアの職業ブラスバンドへと広まって行きました。このように長崎の街より始まった洋楽、そして軍楽隊、バンドの変遷が、ポピュラー音楽を日本に 広め、大衆音楽の繁栄の基礎作りに貢献してきたわけです。幕末の長崎の先達のドラマー達が模索し ながら練習に励み、後進に道を拓いてきたことを、昭和に生まれ、ロックやジャズを聴いてドラムを 始めた私にとって、もっと研究する必要性を大いに感じています。 (純心大学古文書会々員)

風信

あと1と月で平成15年も終る。今年も楽しかった事、かなしく・さびしかった等々あわただしく過 ぎ去って参りました。不図〈年の瀬や水の流れと同じなる〉と言う句を思いだしました。
先月(10月)28日長崎日本ポルトガル協会の皆様と恒例の研修会を今年は天草大江の教会を中心 に史跡巡りの旅に出かけた。朝8時茂木港を出発、富岡・大江・崎津・河浦町の天草城跡・本渡の 博物館と国文化財の祇園橋を見学。午后6時30分茂木港に帰着した。
本会が毎週月曜日の午前中「長崎文化のあれこれ」と題して、自由参加で、毎回講師をかえ話して 戴いている「新長崎学講座」。12月の講座で百回に達した。話の内容は、京都の菓子と長崎(吉田 氏)海外事情の話(北山氏・竹下氏)長崎の風習(宮川氏・川崎氏)等々。最近では女性群の講師 が多い。例えば、料理・短歌の話などである。
長崎刺繍の嘉勢照太氏より「やっと万屋町の傘鉾垂れ幕の中心となる大鯛が完成しました」との連 絡あり、10月29日拝見にお伺いした。昨年5月より仕事を始め、実際の大鯛を写生し、生糸を取り よせて大小の糸を縒り、それを染め、細密なところは家人が寝しずまってより 仕事をなされたとの事。そして最後に全作品が完成するには「あと7、8年は かゝりましょうね」と言われた。
純心大学長崎学研究所より依頼をうけていた本年度の長崎学資料として天保13 年(1842)長崎奉行の命をうけ、係役人が犯人を江戸まで護送した往復の記録「江府え御差し下しの囚人差そえ一件留」と、長崎代官元締手代金井八朗が 文化11年(1814)書写した江戸時代の刑罰について書き止めておいた「徳川 幕府刑罪大秘録」を読みくだし、両書を1冊にして発刊した。特に刑罪大秘録 は図入りで磔の仕様、入墨の事、鋸ひきの事など一般公開を禁じた事項が絵入りで記載されていて参考となる。(本書は一般販売品ではないので希望者は純心大学博物館または本会事務所本村まで御連絡下さい。TEL821−1540 FAX823−2674〈1,300円(送料別)〉