一節切と書いてヒトヨ・ギリと読み、尺八の一種で室町時代に中国より伝えられたと言われ、指穴は尺八と同様に表四ツ・裏一ツ、竹管の中央に節が一ツあることより俗に一節切とよばれている。
 然し、室町時代より伝世している「一節切」は全国的にみても殆どないと言われていた。其の「一節切」が島原城内に展示してあった。
 私が此の一節切に注目させられたのは、私が主宰する古典尺八研究会竹風会々員林新弍氏より父林銑吉の代表作島原半島史研究の中の1冊「郷土読本 杜城の花」の中に牧氏家乗、深溝紀略、口碑を引いて「尺八笛と松平好房公」というのがあり、「その尺八が今も島原城内の展示室に牧家古文書と共に展示してありますよ」と教えられたことより始まっている。
 私は早速、平成14年11月23日島原の松坂秀應氏をたよって島原城主任研究員松尾卓次先生より直接現場に行き説明をお聞きした。松尾先生の御好意で今まで開けられなかった牧家関係資料と共に展示してあった「一節切」をみせて戴いた。
 どうしても、私は其の「一節切」を一度、手にとって吹かせてもらいたかったのです。松尾先生は笑っておられたが、遂にお許しがあって吹かせて戴いたのです。
  とても素晴らしい音色で、もう何年も吹いていなかった尺八(一節切)とは思えなかったのです。私は思わず涙してしまったのです。これが私の今回の研究の発端となったのです。
  この尺八(一節切)を所持していた人は牧覚右衛門という人で牧家に代々家宝として伝えられていたようです。それでなければ、このように無傷で無事に保存されているはずはないと考えられるのです。
 この尺八と牧覚右衛門重是についての話は島原松平初代藩主松平忠房公の伝記に記されているので、詳しい話は「島原の歴史一藩制史」(昭47・島原市役所刊・入江 編−P97)を読まれるとよいが、概説すると重是は忠房の命をうけ京都の街に故あって別れた長子好房を探させたが、そのとき重是は虚無僧の姿になり尺八(一節切)を吹き京都の街を廻り遂に好房を忠房の許につれ帰ったと言う。その時の尺八がこれであると言う。
 次に私は尺八と共に展示してあった牧家の古文書をみせて戴いた。すると牧家系図に細字で次の様に記してあるのが読みとれたのです。「牧覚右衛門重是 母松平氏の女也 延宝二甲寅十一月十三日卆(1674)行年97才」これによって重是は島原城主松平氏の一門であった事、更に系図をみると重是の四代前(曾祖父)の親忠と島原城主忠房の四代前の好景とは兄弟であり共に駿河深溝城主松平家に生れたと記してあった。
 次に又、島原城資料館の松尾先生より牧家資料の中に次の文書があると御教示をうけた。
 天正十年壬午 持舟城に而得一節尺八 重定
 慶安二より同年3(カ)年 此尺八ヲ以 京都空居 尺八切能 口伝謹可申傳者也 重是
この文書によって私は2ツの事を推測しました。
1.この尺八は重是の父牧重定が天正十年(1582)持舟城で入手したものである事。
2.その尺八を重是は前述のように京都の子供さがしの折に使用した。そして、その時期は慶安2年(1649)より3年の間であったというのである。たしかに好房は慶安元年12月25日江戸で出生したと藩の記録に記してある。口説のように好房は慶安元年、京都で生れたのであろう。この尺八は上記の伝記を証明しているのではないだろうか。
 以上の事より、私は此の尺八の事を東京の虚無僧研究会小菅会長に報告したところ、この尺八の事について平成12年4月亡くなられた千葉市在住の故増山博巳氏の研究発表がある事を教えていたゞき大変参考になった。
 島原藩に松平忠房が福知山より移封してきたのは寛文9年(1669)年であり、慶安2年(1644)に重是が使用したと記してあるので忠房の福知山時代の尺八であることは確実であるし、然も、この尺八が天正10年持舟城で入手したというのであるから、次に私は「持舟城」を考えてみることにした。
 持舟城は現在の静岡市用宗(もちむね)にあり、もとは今川義元の所領であったが其の後武田信玄の支配下にあり信玄が1572年後は、天正年間(1573〜1592)より徳川家康の所領となっている。この尺八は徳川家康の時に重定は手に入れたと考える。
 次に島原城内の尺八(一節切)について実見してみると次のようになる。(前記増山氏の記録を参考にして)(1)天口部・歌口に水牛その他のはめ込みなし。外径2.5cm。歌口の形状は天吹でなく尺八と同じ外側を削り落としている。(2)管内に塗り全くなし。(3)全長は33.4cm。(4)樺巻きなど一切なく簡素な造りで、いかにも茶人好みの美しい管である。(5)鳴りは素晴らしい。(6)本管は割れ止めも無いのに今日まで良く割れなかったものだと不思議に感じる。
 最後に尺八の製作者について考えてみることにした。これを解明するものとしては歌口に2ツの焼印がみられる事である。1つには丸に「法橋」の焼印と、其の下に「宜○」という焼印がみられる。そこで宜の下に続く作者名は何と読んでよいであろうか。そこで私は江戸時代の百科辞書といわれる「萬宝全書」をみたら其の中に「宜竹は笛の祖なり」とあった。次に私は其の宜竹という人物について考えねばならなくなった。芭蕉の句に「まづしるや 宜竹が竹に花の雪」がある
ことや、京都・相国寺の禅僧景徐周鱗(1455−1518)が号を宜竹と称していた事もおききした。
 製作者を宜竹とすれば、今しばらく時間をおいて考えてみなければならないと考えている。
(古典尺八竹風会々長・長崎市住)

風信

長崎県生活衛生課の平野課長の御紹介で諫早食肉衛生検査所に行き県内各検査所の先生がたの動物感染症に対する各種研究発表をお聞きした。県下では1年間に食用として牛2万、豚45万、鶏14万、馬50頭が必要なんですよと言われた。それに多くさん資料も戴いて帰った。
富山県高岡市山元醸造社々長山本和代子女史より長崎と高岡の油は甘い、それは長崎の砂糖貿易と北前船による昆布との関係があるのではとの論考を戴いた。大いに参考になる論考であった。甘い油と言えば生月島の油は甘味が非常に強かった思い出がある。
長崎の明治時代を代表する人物の1人に西道仙がいる。道仙は初代長崎県令で九州鎭撫総督澤宣嘉卿を助けて政治に文化に活躍された話は有名であるが其のまとまった伝記はなかった。今回この大業を長島俊一氏がまとめられ出版された。道仙は本来医学の家に生れたので長崎医師会、長崎看護婦養成所等も創立されている。(長崎文献社刊・1,600円+税)
本会事務担当の本村女史・3年間の任期を終わられ4月より郷里に帰省されるので、4月よりは上田女史が担当される。