かねての望みであった表題のウォークを越中先生ほかのご支援・ご指導を得て完歩することができましたので、その体験を紹介させていただくことになりました。以下拙稿ですがご高覧下されば幸甚に存じます。
  今回の企画は私の長距離ウォーキングの趣味と、一六〇〇年代、長崎の町衆も多く参加していたという「お伊勢参り」の様子を知り、是非、私もその跡あとを擦なぞって当時の街道を歩いてみたいとの思いに駆られたのがきっかけでした。
 さっそく旧街道の経路を調査すべく越中先生にご指導をお願いしたところ、先生より即座に頂いた資料が「江府江御差下囚人差添一件留」という、天保十三年(1842年)長崎奉行所の役人が長崎-江戸囚人護送の業務記録でした。
 その記録には出立から到着までの詳細な道中日記が記録されており、私の「歴史街道を歩く」には格好の一里塚となるものでした。では次にその実体験を総括いたします。

一、ウォークの総括
(1)行程…旧長崎街道、旧山陽道、旧東海道。但しすべて旧街道ではなく、34号線・200号線・2号線・1号線に沿ってできるだけ旧街道を歩きました。
(2)距離・日数…一、三三五粁を34日間(2月27日-3月31日)、1日平均39、26粁、但し距離は道路地図での計測なので実質の距離は一、三三五+α(5%)≒一、四〇〇粁くらいが実態と思います。
(3)経由 宿 場…今回通過した宿場町は155宿、うち天保十三年に立寄られた(昼食・宿泊)宿場は次の78宿でした。

○長崎街道…矢上-永昌-大村-彼杵-嬉野-塚崎-小田-佐嘉-神埼-田代-内野-飯塚-木屋瀬-小倉
○山陽道…下関-吉田-船木-小郡-宮市-福川-花岡-高森-関戸-玖波-廿日市-海田市-西条四日市-溜り市-沼田本郷-三原-尾道-神辺-矢掛-川辺-岡山-牛上-三ツ石-片嶋-姫路-加古川-大藏谷-兵庫-西宮
○東海道…大阪-枚方-伏見-大津-草津-石部-土山-関-石薬師-四日市-桑名-佐屋-神宮-熱田宮-池鯉鮒-藤川-吉田-白須賀-舞坂-見付-懸ヶ川-嶋田-岡部-府中-興津-蒲原-原-三島-箱根-小田原-平塚-藤沢-程ヶ谷-川崎-品川
(4)費用…飲食費一四万五千円(一日当四、二六四円)、ホテル代二一万三千円(六、四五四円)、探訪調査費(主に写真代)七万三千円、雑費二万六千円、総計四五万七千円。

二、街道紀行報告
(1)天保へのタイムスリップ
 天保の行程をなぞり、当時にできるだけ近づいて歩くという計画で、相当程度は達成できたと思います。日程。一日距離。旧街道・宿場の通過。行程のテンポ等よく擦なぞれたと思います。
 因に天保十三年の場合は四十三日を要していますが、川どめや業務手続等で四日ほどは足どめされており、五日間くらい私の方が早かったことになりますが、距離が天保の方が長いことと、業務の負担を考慮すれば、歩く実力はほぼ同格と言えましょう。
(2)街道・宿場については各県が保存に努力しており、郷土愛を感じさせられました。各県市町村は旧街道や宿場跡や遺跡を保存し紹介することに熱心でした。特に平成に入ってからの案内標識が目立ちました。また土地の人達の説明は誇らしげで郷土愛を感じさせるものがありました。
(3)街道は歴史そのものだった。
 歩いてみて実感したのは、街道の町々はその多くが昔宿場だったということです。だから街道は昔からずっと、人の交通と経済と文化を発展させ、支え、伝えて来た歴史を秘めていました。そしてこれからも脈々と歴史をつくり続けて行くことでしょう。因に現在の主要幹線は旧街道に沿ったものでした。1号線は東海道、2号線は山陽道、200号線と34号線は長崎街道、そして旧国鉄道も街道に沿って敷設されたもののようでした。要するに旧街道は極めて効率的な交通路だった証拠でしょう。
(4)印象に残った街道・宿場・風景
 どこを切っても印象に残らない場所はないのですが、あえてあげると、鈴田峠道、冷水峠道、遠賀川と木屋瀬宿、関戸-小瀬間の古代道、神辺宿、川辺-岡山間の吉備路、淀川と枚方宿、土山宿-鈴鹿峠-関宿、桑名宿、新居宿、見付宿、日坂宿、薩峠の富士、由比宿、箱根越、大磯松並木、品川宿等です。

  なかでも薩峠の富士は秀抜でした。薩峠は興津宿と由比宿間の峠で、万葉の昔から有名な田子の浦の海岸線と富士山全容を一望する絶景の地で、当日は雨上りの青天に四合目ほどまで雪渓の袴を佩いた真白の富士が、万葉歌人の山部赤人の歌さながらに”神さびて高く貴き“その姿を現していました。私にとってもう二度とない一生に一度の瞬間でした。その日一日、峠から東田子の浦までほぼ30キロを富士を仰ぎ見つつまた振返りつつ歩いたのでした。

  以上私のささやかな挑戦の体験を披瀝しましたが、終りに今回のウォーキングの所感をひとつだけ述べさせていただきます。歩いた街道筋が全てそのように感じられたのですが、今、私達の社会は私達に身近かな人間の歴史を見直そう、或いは再発見しようとしているように見受けます。あたかも高度成長とバブルに踊っている間に見失ってしまった自己の立脚点をまさぐっているかのようであり、あるいは先人が歩んだ道から勇気を汲もうとしているようでもあります。いづれにしても今歴史が再び活きるとすれば喜ばしいことです。
(長崎歴史文化協会協力委員)

風信

朱印船研究家として有名な山形欣哉先生(流山市在住)よりお手紙を戴いた。文中「小生多年念願であった朱印船復原に取り組み…それには長崎関係の事多し」とあり其の設計図も添えてあった。
その翌日、国立教育政策研究所の鎌谷親善先生の来訪をうけ、上野俊之丞(彦馬の父)の「中島精錬所」の事につき種々と御教授をうけ大いに参考になった。
本月は大喜タマ女史より自伝「松旭斎天勝一座の思い出」を戴き、大いに昔を懐かしんだ。次いで厳原の小松勝助先生より初彫高麗版大般若経についての研究書を戴き先生多年の御研究の成果ただただ頭のさがる思いで読ませて戴いた。
七月の長崎学月曜講座は五日と十二日の二回とし、以下夏休み。(九月より再開)