平戸港桟橋から的山大島への交通船「フェリー大島」に乗船し久しぶりに「吾がふる里」的山大島に向かう。
  平戸港口の常燈ノ鼻を過ぎ、海の難所で知られた広瀬燈台を右舷に見ながら船は次第に速力を早め針路を北に取ると、目ざす的山大島が 白波の彼方に横たわって見える。
  長崎県全図を広げると、東経一二九度三四分、北緯三三度二九分の 位置に的山大島村を探すことができる。
  大島村は行政上の名まえで、明治初年、島の東部の大島村と西部の 的山村とが合併し、現在に至っている県内唯一の村制の島である。
  島の面積は一五・三二平方キロ、東西八キロ、南北四キロ、周囲三 八キロで、住民の数は現在約一六〇〇人と推定されている。職業とし ては農・漁業が圧倒的に多い。だが、近年不況のあおりはこの島にも 直撃し、それに「追い討ち」をかけるような漁獲量の激減は島の基幹 産業に多大な影響を与えている。更に、人口流出や少子化現象等、島の 命運に関わる問題は将来の危機感を募らせている。

減速の左舷に島の蝉聞けり 正 雄

  定刻「フェリー大島」は入港の汽笛を合図に滑るように大島の玄関口である「神ノ浦港」に着く。乗客の幾人かは早くも手荷物を持って降船 口に立ち並んでいる。その人達の多くは平戸・佐世保の病院に通う人 たちで、ついでに買物をしたのであろう。やがて纜が桟橋に投げられ た。その時、蝉が一声尾を曳くように鳴いた。数年ぶりに耳にした懐 しい島の蝉の鳴き声だ。瞬時に少年の日が甦り、ほのぼのと心温まる 思いがした。
  わがふる里といえば、やはり海であり、山である。山は標高二〇〇 米級であり、それ程高くはないので、島のどこを歩いても海が見える。 小学校は島の中央部の丘陵地帯にあり、晴雨に関わらず一里ばかりの 山道を歩いて通学した。今はスクールバスが各地区にあり十五分もあ れば学校に行ける。
  山の多くは島の北側の海際に迫り、そのまま断崖をなして壮観であ る。毎年の学校行事に組み込まれている遠足は、決まって島では最高峰の「平ノ辻」(標高二一四米)が選ばれ、山頂では日露戦争のとき此の島の沖で開始されたバルチック艦隊との壮絶な日本海々戦の訓話 を必ず聞かされたものだった。
  頂上の岩頭に立つと自分を軸として東西南北すべて青海原で、まさ しく浩然の気はこのようなところで養われるのだろうと思われた。
  北は対馬・壱岐、東は鷹島・伊万里湾、南は平戸島・松浦湾、西は 平戸・生月島・宇久島、そしてその遙か洋上に五島列島の北端が望見 され、思わず感嘆の声が出る。
  村内の集落の数は凡そ七・八もあろうか。其のうちで北側の大根坂 湾、南側の神ノ浦港、そして的山湾等の沿岸に人口が集中している。 更におもしろいことに島では集落毎に言語のアクセントを異にしてい ることである。大根坂は壱岐弁。神ノ浦は平戸弁。そして的山浦は生 月弁とそれぞれ近接する島の言語に似通っていると言うことである。 更に珍しいのは神ノ浦に居住する人々の姓名を見ると、江戸時代の各 地の国名をそのまま苗字としている家々が多い。そして私の記憶する だけでも次のように列挙することができる。
  関東屋・大阪屋・泉屋・神戸屋・播磨屋・淡路屋・讃岐屋・長門 屋・薩摩屋・肥後屋・肥前屋・五島屋等があり、それに諸国屋という のもあった。何故このように諸国の屋号が氏名に残っているかと言う ことを考えてみると、此の地域は島を囲む海域に寒流暖流がせめぎ合 う絶好の漁場であり、豊富な水産資源に恵まれているという事と、それに伴なう鰛油や煮干・塩辛・鰹節・乾燥鮑・海藻採取等の水産物製 造業も大きく活発化していたので、諸国の人達が集まってきていたからである。
  こうした漁業条件の整った海域の島であり、各地からの漁船がここ 的山大島に集まり、其の人達が島に住みついたと推測しても不思議ではない。まさしく大島は海の上の標的であったに違いない。 更に島の発展の必須条件としては、恵まれた漁場の他に風待ちに最適な港とその施設があったことである。島内の数多い遺跡の中には朝 鮮井戸・海賊井戸と称される清冽な水をたゝえた井戸があり、今も島の人たちに利用されている。又、鯨ノ浦イサンナと称される鯨の解体作業跡も あるので、古くより海人族や漁民たちの注目する島であったと考える。
  「的山大島」の島名の由来については、様々な説があるが、いまだ確とした定説はないようである。「的山」の文字をアヅチと訓める人は 島外の人にこれを示しても皆無であろう。これについては、日本書 紀・仁徳記の中に「的」の字を「イクハ」「アヅチ」と訓ませ、古くは 弓術における盛り土の三重丸の的場の義であり「射 」の字も之に当 てて「アヅチ」と訓ませていることからが島名になったという説が今 は有力である。
  しかし、前述の如く大島の地は地理的にも、歴史的にも、文化的・ 風土的にも其の要件が関わり合って「的山・アヅチ」を大島の冠詞と したと考えている。広々とした的山湾口にそびえ立つ天道山はその象 徴であろう。又、的山大島には四百年来伝承されている長崎県無形文 化財の盆踊りの「須古踊」があるが、項を改めて、また書かせてい たゞきたいと考えている。 (俳句協会会員)

風信

長崎盆の精霊流しは江戸時代より有名で寛政年間(一八〇〇年)京都で出版された「長崎聞見録」にも記されている。昔は船を大波止まで担いでゆき「海に入り押し流す」といっている。現在の精霊流しはお祭り気分で、初盆の御霊を静かにお浄土にお送りする気持ちを忘れている人達も多く見られて寂しい。
盆の八月十六日は恒例の「光源寺あめ屋のユウレイ」と寺町三宝寺の「大地獄図」のご開帳があった。
十八日は国土交通省にご支援いただき、本会主催で「道路の管理についての理解と関心を深める目的」で今年も長崎・雲仙方面の国道を中心に現地見学と説明を盛り込んだバスツアーを行った。参加希望者が多く盛会であった。
本会では一昨年より月二回開催してきた「古文書を読む会」で、どうにか享保年間(一七一〇年頃)玄海灘で捕えた抜荷唐船の事を記した「唐船記」を解読された由、報告があった。
九州歴史資料館で昭和五十二年以来発刊されてきた「九州の寺社シリーズ」の第十九集として、今回は、有明海へそそぐ矢部川の中流の小高く見える辻の山に建立されている「牛頭山谷川寺」(福岡県八女郡立花町)の調査報告書が発刊され御寄贈いただいた。寺の本尊は木造薬師如来立像で平安初期のものであり、脇侍の日光・月光菩薩立像は中世の造立、更に同寺には、他に平安期の佛像など多くの資料があると説明がつけられていた。