私は学校を卒業すると、すぐに住友に奉職した。そのとき会社の先輩の言に依ると、「江戸時代、長崎の港は海外に開かれた唯一の窓として繁栄を遂げていたので、全国各地の商人や廻船業者が競ってこゝに移り住み、波止場近くの街々に店を構えるようになった。当時代表的な銅業者であった大坂の住友商店は、江戸時代の中期以降約二〇〇年にわたって、長崎に出店を設け、銅の輸出を中心とする貿易に携わっていた。」と言われたので、長崎出身の私には住友の銅に興味をさそわれたが、当時私は担当業務が異なっていたし、間もなく入営、士官学校、戦地、終戦、復員、とめまぐるしい月日を経過していた。然し、年と共に還暦、喜寿、傘寿と過ぎ、なんとはなしに、今日を迎えてしまった。然し今回、越中先生のお勧めもあって『住友の出店と長崎の銅貿易』の題目で筆を執らせて戴いたが、内容は不勉強でおはずかしい次第ですが、御一読いただければ幸甚です。
  住友が長崎に出店を設けたのは天和初年頃で(一六八〇年ごろ)、三代の住友友信のときでした。港に面した浦五島町(現五島町)の一角にあった長崎店は、銅蔵、銅掛場などを備えた、かなりの規模のものであったと伝えられています。当時の輸出用銅は大坂の鰻谷の吹所で精錬され、棹銅として造られ、船で運ばれて五島町の海岸に面した出店の銅蔵にいったん収められ、其の後、手続きを経て再び船で出島オランダ屋敷あるいは、新地唐人蔵などに運ばれていったようです。
  これらの棹銅はすべて南蛮吹き"に依って製造された銅でありました。その南蛮吹き"と言うは、どんな製法であったか"その製法の詳細は後日に譲ることにして、住友が習得した銅の南蛮吹きの経緯について説明する事に致します。

『南蛮吹き』
  住友政友(家祖)の義理の兄、蘇我理右衛門は早くから民間に下り大坂で、銅吹き(銅精錬)と銅細工の技術習得に励んだそうです。そして天正一八年(一五九〇)には、店を構えて独立開業、屋号を泉屋"と称しました。
  当時の理右衛門の胸中には、銅吹きに一生を託した夢がふつふつと脈打っていたに違いありません。当時の銅吹き技術は全くの揺らん期でした。戦国諸大名の勧奨で、金銀銅山の開発は盛んに行われていましたが、冶金技術については手探りの時代でした。特に、銅鉱石の中に含有される金銀を抜き出す技術は、まだ日本にはありませんでした。それまでの銅は金銀を含んだまま海外に輸出されていたのです。それは、いたずらに外国商人にうま味を吸い取られる状態でありました。そのうち理右衛門は、銀銅吹き分けの新技術を南蛮人(ポルトガル・イスパニア・イタリア人など)や明国人から、とくに、ハクスレー"HUXLEYと称する一外国人から新技法を習得したと言うのです。それは外国の技術家から直接手をとって傳授された、といったものではなく、なんらかの機会に、銀銅吹き分けの原理を聞いた程度というのが真相でありましょう。
  理右衛門は苦心惨たんの末、南蛮なんばん吹ぶき"とも、南蛮絞なんばんしぼり"ともいわれる新技術を完成しているのです。このことは、慶長年間(一五九六-一六一五)のことであったと言います。ともかく理右衛門の新技術開発は、わが国鉱業史上、画期的な事実であったばかりでなく、我が国の経済史上においても注目すべき出来事であったと思います。

※参考事項
前記泉屋"の由来に就いては諸説があります。その第一は@南蛮吹きを伝授してくれた外国人ハクスレー"白水"の二字を合成して泉屋と称した。A日ごろ信仰していた医薬療病の神、五条天神から「子孫繁栄を願うならセン"の字をつけよ」との神託があった。B蘇我家はもともと泉州とは深い関係があったので泉州の泉を屋号とした。などと言われていますが、いずれを妥当とするかの定説はないようです。なお住友の菱井桁ひしいげた"の紋章は泉の文字の象徴だそうです。
  ご承知のように長崎における貿易の歴史は元亀二年(一五七一)の開港に始まっています。初めはポルトガルの独占貿易でありましたが、一七世紀に入ると、中国・オランダなどの商船が来航し、日本の御朱印船も海外へ進出するようになりました。主要の輸入品は中国産の生糸と織物。輸出品は銀でした。
  徳川幕府は海外貿易とキリシタンの禁止とを切りはなし、貿易の振興を図ろうとしましたが、二者両立の不可能を知り、ついに寛永一六年(一六三九)外国貿易は長崎一港に限り、唐人、オランダ人のみに貿易を許すことにしました。そして寛永一三年(一六三六)には、出島が完成し、寛永一八年(一六四一)
にはオランダ人を平戸より此の地に移住させました。
  そして、鎖国以降、貿易量は益々増大し、膨大な量の銀が海外に流出しました。一方、日本国内の銀の産出量は極度に衰え、寛文八年(一六六八)幕府は遂に銀の海外持ち出しを禁止するようになりました。そこで銀に代わって銅が登場し、銅山の開発が進み、それに相俟って銅の輸出は益々盛んになって来ました。
 住友が長崎に出店を設けた一六八〇年代以降、つまり天和、貞享、元禄と長崎に来航する唐船、蘭船らんせんの数はピークを迎え、銅の輸出高も年間五〇〇万斤(約三〇〇〇トン)から九〇〇万斤(約五四〇〇トン)と極めて高い数値を示すことになっています。
  この様な情況から住友の長崎出店は栄えたのです。この時期、住友は吉岡、幸生、別子といった銅山を次々に開坑しています。元禄一一年(一六九八)別子銅山が開坑後七年にして年間二五〇万斤(約一五〇〇トン)という産銅量を記録していますが、当時、日本の産銅は精銅にして約一〇〇〇〇万斤(約六〇〇〇トン)で世界最高であったと言われています。
 然し国内では元禄の経済膨張に伴って国内の銅需要が増え、輸出用銅の確保が難しくなってきますと、幕府は、さまざまな貿易統制策を講じました。元禄一一年(一六九八)には長崎会所を設け、貿易は長崎奉行所の監督下にある長崎会所がこれを取り締まることとしました。一方、銅の増産と輸出銅の確保を図るために大坂に銅座どうざが設けられ、統制機関の役を担うこととなりました。元禄一四年(一七〇一)の第一次銅座どうざ設置以降、明治元年に廃止されるまで、前後三回にわたって改廃が繰り返されています。銅座は即ち幕府の銅政策の苦難の現われでもあったのです。
  こうして、長崎貿易は、大坂の銅座どうざが御用銅を銅業者から買い上げて長崎に送り込み、長崎会所の主管のもとから輸出される形態が続けられましたが、住友は其の輸出銅のほぼ三分の一を供給する最大手の銅の業者だったのです。
  長崎貿易の輸出品は銅のほか、俵物(海産物)諸色(蒔絵、銅製品)があり、輸入品は生糸・織物・薬種・砂糖などが主要なもので、住友は其の輸出の代表的な銅の輸出商であったと同時に、長崎店設置以前の寛永年代から、既に砂糖・薬種・繊維などの輸入品にも関わっていました。しかし住友では本体の銅山経営の失費がかさみ、輸入には手が回りかねるようになり、元文五年(一七四〇)には一〇〇年以上も続けて来た輸入貿易から手を引いているのです。
 長崎の出店は「銅蔵所」として、住友のみならず同業者の輸出銅の集荷、掛け渡し業務も行っていました。しかし安政五年(一八五八)の五ヶ国条約による開港で、貿易の拠点としての長崎の役割が薄れたため、住友の長崎出店は明治維新直前の慶応三年(一八六七)ごろ廃止され、その役割は神戸支店へと移行することとなりました。
(長崎歴史文化協会協力委員)

風信

十一月三日は「文化の日」ですから「何か文化的なものを書いてください」と言われる。そこで最近読ませて戴いた物のなかより感銘を深くした二、三を取りあげてみることにした。
第一は内藤初穂先生よりご恵贈いただいた『トーマス・グラバー始末』(アテネ書房刊)の事を記したい。長崎の幕末より明治初年にかけて大きな影響を与えたグラバーの一生を、これほど巾を広げて取材し、編述されている書物は他にはないであろう。通説のグラバーは「勤皇の洋商であった」というが、グラバーの反面は、初期の洋商としての活躍と、明治建国の日本を利用し且つ明治の政財界人に利用されたエトランゼであると評される著者の評には心うたれた。そして最後の倉場富三郎伝には一抹のさびしさが漂っていた。
第二は長崎大学環境学部の先生方が中心になられて『幕末の長崎』を中心に編纂された辞書を研究され、其の成果を発表されている『辞書遊歩』(園田尚弘・若木太一編九州大学出版会刊)である。たしかに県立長崎図書館、長崎大学武藤文庫、長崎市立博物館には幕末から明治初期の多くの辞書や其の原本の類が保存されているが、其の一ッ一ッについての研究は従来なされていなかった。今回のこの方面の研究は今後の「長崎学研究」の一方向を示すものであると考えている。
最後に矢野道子先生より先生自著の『ド・ロ神父・その愛の手』をいたゞく。
著者は其の序文に「私は何時からか神父様の生きざまをたどってみたいと考えるようになった」と記しておられ、そして矢野先生の御気持は、私達をいつかド・ロ神父が神に奉仕された静かなお祈りの中にさそって下さっている。