吉田老が長崎に来られ、長崎歴史文化協会を訪ねられたのは平成十二年五月頃からであった。以来毎回月曜日の「長崎学研究会」に出席されていた。九月二十六日突然、熱心なキリシタンであられた吉田老の訃報
に接した。そして御遺族の方より吉田老が是れまで書きとどめておられた「私の長崎学」四冊を持参下さった。今回は、其の中より二、三を抜粋し転載させて戴くことにした。
 吉田老は大正六年京都の老舗に生れられ京大卒業後、「江商」に勤められ戦前は南方・ビルマ方面で、戦後はアメリカ・香港方面で経済人として大いに活躍された人物であられた。(越中哲也)
第一章 はじめに
  東京から長崎に転居して先ず驚いたのは、私が余りにも長崎の事を知らなさ過ぎるということであった。こちらに長崎歴史文化協会のある事を知り、その時々の例会や見学会に参加し勉強させて戴くうちに県外で得ていた知識では到底及ぶべくもない新鮮さと豊かさのうちに、長崎という土地の歴史や文化の奥深さ多様性を身につけることができたと思えるようになった。私は其の思い出を年ごとにまとめて「私の長崎学」と
し記しておく事にした。
第一章 第六話
  土神様長崎の墓地には「土神様」という石碑が墓石と並んで建っていたが、大村市の墓地見学会では一つも土神石は見かけなかった。この土神石は唐人屋敷内に建てられた土神堂に関係があり、土地の神様という意味であり古くは土公神といったという。長崎の人は現在「つちがみ」と訓読するらしいが、本来は「どじん」と音読するらしい。これには唐人屋敷建設と関係ある話が伝えられているそうである。私はその伝説を聞いて改めて、これこそが長崎と中国の縁の深さを示すものであり、中国文化が長崎文化の底辺に根付いていることを思い知らされた。
第一章 第七話
  墓の文字に金泥が入れてあること長崎の人に伺ったのだが、墓石の正面の刻まれた文字には金泥を入れる習わしがあると言われる。実はこれは墓に限ったことではなく句碑の文字にも金泥を入れるのだそうである。是も人づてに聞いたのであるが水原秋桜子の句碑を平和公園内に建てたとき、その除幕式に招かれた秋桜子が除幕の綱を引いた時、現れた彼の俳句の文字が金で輝いていたので、彼は立腹していたという。秋桜子は自分の句碑は石の素地の色そのまゝの刻みであろうと当然予想されておられたからであろうと言われた。後日NHKの朝のドラマ「さくら」第一回放映のとき、ハワイの日系人の墓地が映ったが、其の墓碑には確かに金泥があった事を見た記憶がある。然し果たして其処が実際にハワイの墓地だったのでしょうか。

第二章 第二話  長崎名物は「坂・墓・ばか」ときいたが。
  長崎に来て間もなく、たまたま土地の人から「長崎名物には坂・墓・バカ」があると言はれる。
(イ)坂。長崎は実に平地が少ない。町に坂が多いのは事実である。旧町では車がすれ違うのも容易でない。町では何処かに車を置き、あとは坂道か石段を登って家に行くしかなく、自転車すら役に立たない。長崎では自転車に乗れない人が多いので、当然自転車を持たない人も多い。
そこで大変なのは郵便配達や新聞配達の人、宅配便の人、ヤクルトの小母さん達は大変である。手ぶらで坂を降りて商店街に行き、重い買物袋をさげて坂を登る。そんな毎日だから充分健康的で歩数計なんかいらない。それが「長崎・坂の町」である。文字通り納得である。
(ロ)墓。長崎の大かたの寺は充分な平地が得られないから、その寺の背後にある墓は山の斜面に上へ上へと造成せざるを得ない。従って山肌を埋めて広がるので墓所は遠目にもよく目立つ。
  町の東南の山麓に並ぶ寺々。その背後に並ぶ墓は、まさに壮観である。目を転じて西北の玉園町、筑後町方面をみても麓には永昌寺、聖福寺などと寺々が並び其の裏山は頂上まで墓が続いている。そして其の墓地の間に楠の大樹があり、特に春の楠若葉の景色はまさに「墓の町・長崎」の絶景である。
(ハ)ばか。長崎人は自分達の事を別に自嘲して「バカ」と呼んでいるわけでは毛頭ない。むしろ「こり性」というのが当っている。其のよい例が「クンチ馬鹿」と言う。自分の町が七年に一度回ってくる踊町になると其の費用は町内の寄付だけでは到底たらず、長崎の人達は「まつりバカ」になられるようである。それで町の人達は充分に酔い、悔いは残らないと言われる。今年のクンチがすんだら、次の用意に過ごす。何によらず、長崎の人達は「なんとか馬鹿」と心嬉しく自讃され、実に爽やかである。そんな気持を持っておられる長崎の人々に親しく接していると、こちらも、すごく楽しい。
第三章 あとがき
  長崎在住三年目を終えて今年は「カクレ・キリシタン」を取りあげた。カクレ・キリシタンの信者の人達は命がけで先祖から受けついだ信仰を守り続け、更に子孫に其の信仰を伝えた人達である。
  勿論その受けついだ信仰には代々の染み込んだ日々の日本人固有の文化が色濃く重なり合う過程で、確かにヨーロッパのキリスト教より否められたものも多い。信者の人達が「御神体」と崇めるものは色々あるが、有名なマリヤ観音と共に掛絵もある。そこに描かれているマリヤは日本女性で赤ン坊を抱いていた。
  この他、キリスト教は本来一神教であるのに信者の人達は家内安全・無病息災など祈って、お稲荷様、大黒様、天神様もお祀りしてあった。
(中略)
カクレ・キリシタンの七代二百数十年に及ぶ苦しみと信仰を思うとき、今のキリシタンの信者の方よりカクレの人々の信仰を思ふと色々と考えさせられるものがある。「とつおいつ」考えているうちに気がついたら春分が過ぎてしまった。
  カクレ・キリシタンの七代二百数十年に及ぶ苦しみと信仰を思うとき、今のキリシタンの信者の方よりカクレの人々の信仰を思ふと色々と考えさせられるものがある。「とつおいつ」考えているうちに気がついたら春分が過ぎてしまった。

風信

平成十六年・最後の風信の文を書く。昭和五十七年八月「ながさきの空」第一号を発刊して以来、本号で二六九号となった。良くも、此こまで続けさせて戴いたと感無量です。
然し何といっても新潟中越地震の悲報、いまも続いていて毎日毎日が何かさびしい。
本年度、本会の行事で第一の思い出は、我が国道徳の源とされる孔孟の遺跡を訪ねて曲埠・泰山方面を旅する事ができたことであった。この全行程を原田正美会長が「ビデオにおさめているので折りをみて皆様にお見せ致します」と言われた。
次に、今まで色あせて暗い感じがしていた馬町諏訪神社下の地下道に野田照雄さんが描かれた色彩ゆたかな「長崎くんちの傘鉾」の図が掲げられ、其の数が増すごとに、暗い地下道が次第に明るくなってきたのは何となく愉ばしかった。
十一月二十八日第六回全国ぶらぶら節大会が長崎県民謡協会主催で開催された。毎回の事ながら平川淨委員、本田由明委員を中心に各お世話役は大変であった由、今年も愛知、大阪、熊本方面からも出演者が多く盛会だった。第一席は熊本県の高見春代さん、第二席は堺市の元井美絵さん、第三席は北九州の鈴木恵子さんでした。
長崎大学姫野順一教授より我が国写真術の祖上野彦馬没百年になるので十二月十八日午前十時より墓参り、午後二時より長大総合研究棟二階ホールで「写真の源流」と題し記念シンポジウムが開催され、東京より上野一郎先生も来崎された。
十一月正倉院事務局より第五十六回「正倉院展図録」を御送付いたゞいた。今回の出品数七十五件、うち初出陳十二件で、今年の特徴は聖武天皇、光明皇后の遺愛品に加え伎楽面、楽器、身を飾られた佩身具、佛具の類であった。
今年最後の行事として、除夜の鐘をつき新年三社参りに行きます。十二月三十一日夜十一時三〇分光源寺(伊良林)に集合。鐘をつき、伊勢・松森・諏訪三社の参拝。(川崎道利幹事が先達します。)
本会の年末は十二月二十九日(水)午後三時閉所。新年は一月五日(水)午前九時三〇分開所いたします。